5月佛教講話会のご報告

【講 師】 三部 義道老師

【演 題】 『「四無量心に学ぶ」その3 「悲」』

坐禅を行うということ― 何もしないで坐り、「止観(しかん)」する。

すると頭の中では様々なことが思い浮かび、その迷いに引きずられそうになるが、それに引きずられないように坐り続け、禅定に至ろうと努力する。

この迷いのこころを統一する為の方法として、大乗仏教は40種類の集中しても良い瞑想の項目を決めた。

これが「四無量心(しむりょうしん)」である。

その一つである慈悲の瞑想は、自分のことを思い、大事にしながら、祈りを育て、そしてその祈りを他の人に振り向けていくことをいう。

祈りを繰り返す中で、優しさという「慈悲」が大きく育っていく。

人を救おうと、他の人のこころに慈悲心を起こさしめ、共に悟りの世界へ救われていこうとすることが大乗佛教なのである。

けれども、人の悲しみは他人である自分がとても分かり得るものではない。

それでも人のことを分かりたいと思い、思わず出てしまう呻きが「カルナー」、「悲」のこころである。

「悲」は「同事行(どうじぎょう)」、共感する力、こころを生む。

しかし現在、手紙や眠る前の語り、読み聞かせというものが少なくなり、メールや電話にとって代わってしまった。

便利な生活に慣れ、流されていく中で私たちは多くのものを失う。その事に気を付けてこころを向けていかないと人のこころの中で慈悲心がなくなってしまう危険性がある。

さて、人は悲しみからどうやって立ち上がっていくのか。

それは他の人との関わりの中からである。

人と関わり合いながら傷を持ちながらも、立ち上がる気持ちを起こさしめていく。

亡くなった人との思い出を語る場があること。葬儀、法要の中で故人を思い合う。

他人の為に役立っていく。ボランティアをすることにより、こころに傷を負った人が他の人の為にボランティアを通してこころを回復させていく。

「悲しみの感情や涙は、実はこころを耕し、他への理解を深め、すがすがしく明日を生きるエネルギー源になる」

柳田邦男氏のことばにあるように、悲しみは私たちのこころを耕し、掘り下げていくことに通じる。

想像しながら物事を見ることによって、そこに慈悲心が育っていく。

行為を通して、自分の中にある慈悲心に気付き、大きく育てていくことが大事である。