6月佛教講話会のご報告

【講 師】 愛知尼僧堂堂長 青山俊董老師

【演 題】 『禅に生きる』

今日は澤木興道老師を通して禅に生きると題し、お話ししていこうと思います。
澤木老師は、「生活の全分(ぜんぶん)を仏さまに引っ張られてゆくというだけじゃ」とよく言われました。
これは簡単なようで大変難しいことです。
私たちは常に良い事が起こることを願い、悪いことに遭遇すれば嘆き悲しむわけですが、そうした感情に振り回されることなく、良きことも悪しきことも人生全て皆、仏さまからの頂きもの、自分の人生は仏様に引っ張って頂いているのだという自覚を持って生きよと説かれているわけです。

「凡夫の持ち物を捨てたのを仏という」とも老師は言っておられます。
自分の狭い了見を捨てること。あれが欲しい、これが欲しいと貪り集めてみても、持ち主である自分自身がお粗末であれば、どう着飾っても美しいとは言えない。
外見を着飾ることよりも、自分自身のこころを磨くことによって凡夫から仏になっていく。
そうした我欲に引っ張られている自分の目、耳、見方、頭をつくり変えていくことが仏教であり、仏の眼を養い、育てていくことで自分自身が光って来る。
それと同時に法を聴き、教えを深めていけば行くほど、自分自身のお粗末さ加減が分かるようになるのです。

“ 身心に法いまだ参飽せざるには、法すでにたれりとおぼゆ。法もし身心に充足すれば、ひとかたはたらずとおぼゆるなり。”
仏教の教えを聴くことで高慢になるのではなく、自分の欠点、足りなさを思い、謙虚になることこそが大切なのです。
“ 松影の暗きは月の光なり ”
自分のどうしようのなさを気付かせてもらえるのは「月の光」、即ち、仏法の教えに照らされているからこそ、自分の足りなさに気付けるわけです。
せっかく仏法を聴いても知識におぼれ、高慢になっては元も子もありません。
過去に引きずられることなく、まだ来ぬ未来に不安を感じ足元を見失うということなく、今、今を大切に生きていくこと。
常に他人事ではなく、自分事として法を聴き、正願(せいがん)を持って、少しでも仏教の教えに出逢わせて頂いたことに「感謝」しながら、「懺悔(さんげ)」、「誓願(せいがん)」を持って、この3つを大事にしながら人生を深めようとすることが仏教徒としての人生の歩み方なのである。