毎年のことながら、師走のひと月は月日が束のように過ぎていく。

一週間の流れが早送りのように過ぎてしまうのが師走という最終月の有り様だ。

そんな日々の中で、久し振りに顔を覗けてくれた日曜学校の卒業生たちが何人かいた。

 

将来への夢を持って受験し、合格を報告しに来てくれた子ども。

高校受験を控えている子ども。

県外の大学に行って、生き生きと日々を暮らしている子ども。

最近は、SNSで日常の様子を知らせてくれたり、仕事の担当部署での依頼を連絡してきたり、みんな毎日を一所懸命生き生きと生活している。

いつの間にか、子どもだった日曜学校の子どもたちが、それぞれ逞しく成長しているのが嬉しく、そして眩しく見える。

あんなに幼かったのに。

少食で、ご飯がなかなか進まなかったのに。

 

そんなことなどなかったように、いつの間にか大人になって身長も遥か私より高くなって会話をするときには見上げるようになってしまった。

子どもの頃には考えられなかったけれど、今は同等に本の話をしたり、映画や、ドラマの話をしたり、豊かな知識で逆に私が教えてもらうことの方が断然多くなった。

時代に乗り遅れスマホで手間取る私に「先生、今度教えてあげるから」

と笑われてしまうシーンもあった。

どの子どもも、いつの間にか大人になったけれど、こうして今も訪ねてきてくれることを幸せに思う。

 

いったい私は、この人たちに何をしてきたのか。一切、何も出来なかったと思う。

月に2回お寺の本堂で行なう日曜学校は、本尊さまにお参りをし、坐禅をし、遊びやお茶の稽古をして、時に遠足に行ってという単純な繰り返しの中で、子どもたち同士で育て合っていたように思う。私は、ただ傍でそれを見つめて楽しんでいただけで、彼らが残してくれたものの方が断然多かった。

不思議なことに子どもたちは、いまだに日曜学校の「四つのお誓い」という称え言葉や、食事のときの「五観の偈」という偈文も忘れずそらんじることが出来る。何よりお寺にやって来ると先ず、本尊さまにお参りをする。

「私たちのここは原点ですから」

と言ってくれるのを聞きながら、いつのまにか遥か自分を越えて成長している姿に羨望を憶えるほどだ。

お寺という器の中で一緒に時間を味わうだけで、日曜学校に教育といった堅苦しいものは無い。けれども教育ということを考えたとき、実は子どもに育ててもらっているのは大人の方かもしれないとつくづく思う。育てていたつもりが、子どもに関わることによって大人の方が育てられていた。

 

教育から共育、そして今日育(きょういく)しながら、私たちは日々の暮らしを育んでいく。

今年が始まる。

その鼓動を聞きながら、さてさて自分はこの一年をどう育てていくのか。

目標を立てながら楽しみに、その一歩を踏み出す。