「 営みの中で 」

 時々年会のご法事で、亡くなられて数年の三回忌とか七回忌の方と、三十三回忌、五十
回忌という年月を経た方を併せてご供養するということがあります。そうした法事の席には
当然若い方も多くおられますし、年齢の高い方も沢山おられます。ところが時に、五十年
前には生まれていなかった、即ち故人とは面識のない人が中心になっての法事ということ
もあります。どんな気持ちでその座におられるのだろうと、いつも思います。
先日もそうした組み合わせのご法事があり、法要の後、皆さんとお話をさせて頂きました。
伺ってみると、故人と面識があった方は一人。故人が亡くなった時は、まだ一歳余りだった
という方が一人、大半は全く面識がないという人でした。
面識がない人が面識のない人の法事に集い、その人の為に手を合わせる。
本当に心温まる姿だと思いますし、そうした姿に故人は安らぎ、浮かばれるのだろうなあと
思います。

 私の子供の頃、お寺に時々来ておられた宮崎童安という方がおられました。風貌の変
わった方で子供心に気味悪く思っておりましたが、書かれる字や絵には非常に心を惹か
れるものがありました。その宮崎童安先生のお話に印象的なものがあります。
「自分はな、有名なお寺やお宮にお詣りした時、必ずやっていることがあるんだ。皆は立
派な建物だ、大きな柱だとか言って、眼に見える所だけ見て感心しておる。そんな時、床
の下に行って、柱を支えてくれている礎石を手で撫でながら『よく頑張ってくれているなあ、
しっかり支えてくれてありがとう』と言うんだよ」と先生は話されました。
目に見えぬ所でしっかり支えてくれる働きがなければ、どんな立派な物を上に建てようと
も、それを維持することは出来ない。物が大きければ大きい程、支えが大切なのだという
ことを教えてもらいました。これは、どんな事にも通じることです。

 私達のこの大切な命、一人一人唯一絶対の命の存在、そんな命も自分だけの力で存在
するのではなく、その命を取り巻く繋がりと支えがあって、初めて存在するのだということを
以前にも述べました。従って、根を養うことによって木が育つように、自分自身の命の源流
に目を向け、過去の命に寄り添い、大切にするという心を養うことによって、自分の命は大
きく育っていくのではないでしょうか。
皆が集まって営まれるご法事も、こうしたところに大きな意味があり、大切な事だと思うの
です。

 先代住職との会話にも思い出深いものがあります。「法事というのは、皆んな当日だけ
のことと思っているようだけれど、それは違うと思うのだよ。故人のことを思い乍ら、掃除を
し、お供えは何にするか、何が好みだったか、お花はどんなお花が好きだったか、喜んで
もらえるのか、来て下さる方をどうもてなすのか。故人は、どうして欲しいと思っているの
だろうかと、心を配り準備をする。その自分の欲を離れた思いや行為が、その人の心を清
らかにする。その真心を回らしていくことが一番大切なこと。それが法事なんだと思う。
自分達僧侶がその場に行った時は、法事の大半は済んで、仕上げをするだけのことだと
思うんだよ。」
と話してくれたことを思い出します。

 もう一度、ご法事、月忌務めを営むことの意味をお互いに考えてみましょう。
最近、月忌(がっき)(故人の毎月の命日)、正当月忌(しょうとうがっき)(故人の亡くなった
日)を営む方が少なくなってきたことは残念なことです。時間に追われ、生活事情が変化し
てきたことはあるでしょうが、毎月が無理であれば、せめて年一回の命日のご供養くらい
は考えてほしいものだと思います。
ご法事で自分達の命の根源と向かい合い、そのことによって私達の命の大切さ、奥深さを
考える時を作っていきませんか。

 
 
 
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