「 ようこそ ようこそ 」

 期待はずれという言葉があります。
面白いだろうと期待していたのにつまらなかった。
美味しいと評判だと聞いたので買ってみたけれど、噂ほどでもなくがっかりした。
良い人だと思っていたのに、なんだか裏切られたような気がした。
様々な期待はずれがあります。
良いと思って期待して、その挙句に肩透かしを食うのですから随分と落胆する出来事です。
中には、こころに深い傷を残すものもあるかもしれません。
でも考えてみると、その期待は自分の勝手な思い込みも含まれているのかもしれません。
「美味しいだろう」「楽しいだろう」「良い人だろう」
自分で勝手に想像して、期待しながら、どんどん頭の中でイメージを膨らませ自分好みの
ものを作り上げていった挙句、一致すれば「良し」、一致しなければ「悪い」となる。
自分の中の好みを相手に押し付けて判断を下しているような、そんな自分勝手なところが
無きにしも非ずと思うのですが、如何でしょうか。

 仙腰a尚の画に「ようこそ ようこそ」と賛字の入ったものがありました。
長い間、この「ようこそ ようこそ」の意味が分かりませんでした。
何が、ようこそなのか考えていた時に、青山俊董老師のご著書に扉書きを頂きました。
― 投げられたところで起きる小法師かな ―
人生、何があるか分かりません。
良いことばかりが続くとも限らないし、辛かった日々に思い掛けない喜びごとが訪れること
もあるかもしれません。
青山老師の小法師は、どこに投げられるのか、どこに投げて欲しいのか、そんなことは一
切考えていない。
全く自分の計らいを捨てて、お任せの状態です。
お任せの状態だからこそ、期待もなく、力みもなく、投げられたところで「よっこらしょ」と起
き上がってくることが出来るのです。
もし自分の思い込みが強く、期待が大きければ、「こんなはずではなかった」と、いつまで
も自分の置かれている現状を受け入れることが出来ないでしょう。
今の自分を受け入れることが出来なければ、未来に向けての一歩を踏み出すことも出来
ません。

 同じように仙腰a尚の「ようこそ ようこそ」も、自分の計らいを捨て切れという強い投げ
掛けのように思えてきました。
自分の計らいを捨て去り、佛様に全てお任せすれば、幸も不幸も無いというお教えのよう
な気がします。
佛教でいう「放下著(ほうげじゃく)」、自分の欲も悟りも全て投げ捨て、執着から離れる。
言うは易しですが、なかなかなれない境地です。

                                                 合掌

 
 
 
  TOPへ戻る  
 
TOPページへ