「こころを澄ます」

明けまして
おめでとうございます

本年も相変わりませず宜しくお願い申し上げます。
ここ数年、新年の挨拶ことばの重みをつくづくと感じます。考えてみると、このことばはとても重く、意味の深いものなのだと改めて思い返しています。
今までなんとも思わなかったこと、見過ごしていて気が付かなかったことがいかに多いことかと考えさせられもします。
何気なく言っていること、何気なくやっていること、何気なく流れていることが本当はとても大事なことなのではないか。

アニメの歌ではありませんが、太陽が昇って、沈むこと。
眠って、目が覚めること。
自然を見れば、秋に植えた球根が、春の暖かさに誘われて芽吹きを始めること。
その小さな芽吹きが陽射しを受けて成長し、花を咲かせ、季節の終わりと共に花が散り、葉を落として枯れていきます。そして季節を経巡り、再び春の陽射しの中で芽吹き始める。終わりは始まりであり、始まりは終わりへのスタートなのです。

時間は再生を繰り返しながら流れていきます。その大事な事実を私たちは日常の中に埋没していると、うっかり忘れてしまいがちです。
コロナという百年に一度の災禍に見舞われ、多くの犠牲者が出たことはとても不幸なことでした。

自由に動き回ることが出来ず、立ち止まったままの時間。
いらだちと、焦燥感にさいなまれる毎日が続き、そんな中で、不平不満を言い、ただ絶望し嘆くだけでなく、この立ち止まったような時間の中で私たちはここで学ばなければならないと思うのです。
目をこらし、耳をすまし、こころを澄ましてよく観るのです。
考えてみると当たり前すぎて、今まで見向きもしなかった「当たり前のこと」を再認識する良い機会になったと今、思っています。

ひとりは自由であり、ひとりは孤独でもあります。
以前は煩わしいと思うこともあった人との繋がりも実は、その人間関係の中で自分は支えられていたということも、三年間のコロナ禍で過ごす中での発見でした。

大事なことは、隠れている。
私たちの日々の暮らしは、その大事なことの積み重ねで構成されているような気がします。

新しい歳を迎え、私たちは改めて目をこらし、耳をすまし、心を澄まして大事な真実を見つめる眼差しを育てていかなければならないと思っています。

皆さま、良い一年を。

合掌
神応院住職 西村 英昭