白菜が美味しい季節になった。
塩味だけで、あっさりと煮るのも美味しい。
クリーム煮にして洋風に仕立てても美味しい。
漬物にしたらご飯が止まらなくなる。
生でサラダにすると、シャキシャキッとした食感が堪らない。
なんにでも合うし、どうやっても美味しい。
それは白菜の自己主張をことさらにしない持ち味なのかもしれない。
合わせられたものと、しっかり味を作り上げ、でも白菜自体の存在感は失わない。
密やかでいて、密やかではない。
噛み締めた後、白菜のほのかな甘みと旨みが染みてきて、しっかりとその存在を示している。
でも、それが押しつけがましくなく、あくまでさりげなく現われてくるのが白菜の”ただ者ではない“所以だ。
高級野菜としてツンとすましたところもなく、庶民の台所にいつも静かに存在しているので、寒い冬がやって来ると、つい採用度が上がり頻繁に食卓に登場するようになる。
鍋の中に入れられて、他の野菜や肉たちと相席になっても文句も言わず、勿論、共演NGということもない。
どんな相手が来ても融通無碍に自分を相手の中に溶け込ませていく。
ふと、考えてしまう。
そんな完璧な人間がいるのだろうか?
毎日が上機嫌、いつもさりげなく他人と接し、決して出しゃばらない。
そんな人がいるのかと考えてしまうが、広い世の中、やっぱり「そんな完璧な人」もどこかにいるのだろうなあと想像する。
取り敢えず、自分は程遠い。
つい出しゃばったり、相手に構わずしゃべりすぎたり、人の好き嫌いも多く、機嫌が悪いとブスッとしている。
正直と言えば、正直だし、我が儘で大人げ無いと言えば、その通りと言わざるを得ない。
さあ、新しい歳が始まった。
今年一年、私も白菜に習ってギュウギュウ詰めの鍋の中で、揉まれながら、グツグツ言って、でも白菜のような仄かな甘みが出せるように。
決してグツグツが、ブツブツにならぬように、精進精進。
と、今は発心しています。