出逢いというものは本当に不思議なものだと思う。
もう随分長い間連絡もしないでご無沙汰しているから、とうに縁も切れてしまったかと思っていたら、突然電話が掛かって来て懐かしく話し込み、その上、私の抱えていた問題に手を差し伸べてくれ、バックアップしてくれた友。
誘って頂き、通い始めた会に行ってみると見知った顔が多く、そこでまた新たに縁が深まったり、意外なことが分かったり。
全く面識はなかったけれど、どうしても逢いたいと念じていたら、ある時、ポンと突然その時が訪れたり・・・。
近づいたり、離れたり、地下茎のように広がったり、つくづく縁というものは不思議なものだと思う。
その縁を大事にし、育みながら日々の営みは続いていく。
嬉しいことばかりではないし、嫌なこともある。
そんな嫌なことがあったとき、さりげなく愚痴を聞いてくれたり、自分とは違った視点で意見を言ってくれたり、感情に流されないように冷静に助言をしてくれる友がいることは自分にとって大きな財産だ。
「おうさまの耳はロバの耳」ではないけれど、他では言えないことを吐き出してしまえる相手がいることは、その人にとって精神的に大きな救いになるのではないだろうか。
答えは自分が知っている。
けれども、本人が、その答えに辿り着くまで見守りながら待ってくれる人、納得するまで、揺らぐ感情の発露を恥ずかしげもなく晒していく場があるというは大きなことだ。
猪突猛進するしか能のない私を心配して、その散らかした後始末をしながら後ろから助けてくれる友がいる。
あまりに未熟な様子に心配して応援の手を差し伸べて下さる先生や先輩方。
いろんなことが数珠つなぎになって、気が付くと常に自分は守られている。
本当にたくさんの方々の見守りの中で生かされているのだと、最近しみじみと思う。
自立しなければならないとよく言うけれど、本当に人は自立出来るのか。
自立していると思うのは思い上がりで、実は多くの人の縁という安全ネットの支えの中で自立もどきの自分がいるだけではないか。
自分の力なんて大したことはなく、手を差し伸べて下さる無数の助けの中で自分は立たせてもらっているーそれが実際なのではないだろうか。
私は恥ずかしながら、いまだにヨチヨチ歩きをして転けたり、尻餅をついたり、ふらふらとした歩みでおぼつかない。
「縁は頂くもの。縁は育てるもの」
酒井大岳先生から教えて頂いたことば。
縁の種を蒔いても、水や肥料をやらなければ芽生えはしない。
自分が、その大事な縁の種を持っていることすら忘れてしまう。
縁の種を蒔き、ひたすら耕し続ける。
雨だって降るし、雪だって降るし、横なぐりの雨が降るときもあるかもしれない。
けれども、ひたすら耕していく。
いつか次の人へ、自分の育てた縁の種を渡せることを願っている。