平凡という言葉は、なんだか価値がないような、ランク下の印象を与える言葉だ。
「この作品は、平凡だ」
と言えば、作品として価値が低く駄作だというような印象を与え、
「この洋服、素敵じゃない?」「そう?よく見る平凡なデザインよ」
と言われれば、素敵だと思っていた気持ちが一瞬にして萎み、すっかり着る気をなくしてしまう。
平凡という言葉は、なんて不思議で微妙な言葉なのだろう。
ここに退屈が加わると、更に相乗効果をもたらして益々みすぼらしい印象を与える。
その代表的なものが、私たちが今、生きている日常という時間の流れだ。
日常生活は、別にドラマのように特別なことが起きるわけでもなく、昨日のことが同じように今日もまた繰り返されて気が付けば日が暮れている、という案配のように至って平凡なものだ。私たちは、ついこの平凡な日々を退屈と思い、他人と比べて、なんてつまらない人生を歩んでいるのだろうと思ってしまう。
でも、それがひとたび壊れてしまったとき。
いま現実に世界のあちらこちらで起こっている紛争は、「平凡」が壊れてしまった悲劇をまざまざと私たちに見せつける。
価値が低いと思っていた平凡が、実は、もっとも輝きに満ちた存在であることを。
私たちは悲劇を見て初めて、その平凡の前で立ち止まる。
めまぐるしく変化していく暮らしの中でも「平凡」は、常に変わることなく淡々と流れていく。
料理でいうところの出汁のような存在が「平凡」という存在なのかもしれない。
その平凡に自分なりの味を付け、同じようだと思えることを新鮮に受け止め、初めて向きき合うように真剣に取り組んでいくとき、何かが自分の中で生まれてくるのかもしれない。
一度壊してしまったものは、元には戻らない。
失ってしまってから、大事な宝物だったのだと気が付いて後悔する前に、今、自分の目の前にある平凡を大事にしたい。
掌中の珠のように大事に、丁寧に磨き上げることが毎日を生きていくことなのだろうから。
今尚、世界の紛争地で失われていく命、日々の暮らし、苦しみ、悲しみにもがいている多くの人々が平凡という宝物を手にして微笑む日が早く来るように、ひたすら祈っている。