世の中には、ハッとするような美人がいる。
『すれ違った後、思わず二度見したねえ』
と言わせるくらいの印象的な美人。
会った途端、ぽーっとして、うっとりしてしまう程の美人。
最近では、若い男性タレントや俳優の人達の中にも見ていて感心するくらいの美形が続々と登場している。
それを見ながらあの人たちは朝の洗顔の時、鏡に映った自分の顔を見てナルキッソスみたいに見惚れてしまわないのだろうかと、つい要らぬ心配をしてしまう。
私が白雪姫の魔法の鏡だったら、毎日絶賛して止まないだろうなあとテレビを観て思ったりもする。
まあ、なんと世の中には綺麗な人が多くなって、平凡を背負って歩いている身には肩身が狭い。
こういう世の中の流れを美しさの一本化というのだろうか。
「美人というのは表面の美しさだけではないですよ。心ですよ」と、いくら旗を振っても、
「いや、今の時代ビジュアルが大事ですよ」
と一蹴り。
でも、人の魅力は、やはり「味」なのだ。
負け犬の遠吠えと言われようとも、そう思うのだ。
生活の中から考えてみても、煮物のごった煮がなぜ美味しいのかというと、様々な具材が一つ鍋の中でひしめき合って、それぞれの味が染み出すから美味しくなる。
小芋、ジャガイモ、牛蒡、椎茸、人参、こんにゃく、鶏肉、インゲン豆・・・
姿、形、色彩も違っていながら、それぞれの個性が鍋の中で融合して美味しさを作り出すから「旨み」が生まれる。
人もいろんな顔や性格の人がひしめき合って、時にぶつかりながら暮らしている内に旨みが出て、それぞれの味が深まっていく。
しかもその美はひとつではなく、ゴツゴツとした無骨さもあり、つるんとした滑らかさもあり、トロリとした味わいも、柔らかさ、固さ、甘さや辛さも、渋さだって、大きな魅力だ。
その個性は、ひとつの美を超えた先に得られるものであり、人は、その美をこころの奥深くに隠している。
含羞を持った人。
人のこころのドアを開けた先に何があるのか。
そこには、その人自身も気が付いていない自分だけの「美」が存在しているのだと思う。