文庫を開いてから一年半経った。

子どもたちの本離れが激しいという話は聞いていたけれど、幼稚園の帰りに寄ってくれるとか、学校帰りにふらりと寄ってくれるとか、大人の方もお茶を飲みに、おしゃべりを楽しみにとか、そんな気楽な場所になればいいと思って開いた。

ところが、現実はそんなに甘くはなく、なかなか定着しない。

考えてみれば、読書家でもなく、読み聞かせを長年やっているという実績があるわけでもなく、わらべ歌などは音痴なので、ひたすら避けてきた人間が付け焼き刃で行なう下手な読み聞かせに人は集まりもしないなあと、今更ながら当たり前の事実に気が付いた。

我ながら暢気な性分に呆れてしまう。

それでも毎回、訪れてくれる子どもたちが少し出来てホッと一息ついていたら、卒園を迎え、折角出来た縁も途絶えてしまった。

はてさて、どうしたものか。

悩みの中で立ち往生する自分に語りかける。

上手くいかないことを、上手くいくようにと思うから苦しみが生まれ、悩みが生じて気が滅入るのだ。根本を考えれば、はなから上手くいくわけがないものを始めたのだから、ここは仕方がないと腹を括ってやっていくしかないだろうと『決心』する。

それなのに、ものの数秒後には「どうしたものか・・・」と再び落ち込んでいる。

私の感情は行ったり来たり、慰めたり、悩んだり、一人二役で忙しい。

諦めるということは、難しいことなのだと改めて思う。

諦めるとは、佛教では、もう駄目だと観念してしまうという意味ではなく、事実を事実として明らかにする、明らかに認識する、そして、その事実を受け入れて進んで行くことなのだというが、これがなかなかに出来ない。

悩んで、落ち込んで、思い直して、また落ち込んで、毎日がそれの繰り返しだ。

『石の上にも三年』ということわざがあるが、このゴツゴツした石の上に三年も座り続けるのかと思うと溜息が出る。

それでもひとつのことを成し遂げた人というのは、この石の上に三年も五年も座り続けて貫徹した人々なのだろうなあと感心してしまう。

私などは、一日二日、石に座っただけで弱音を吐いている。

文庫の午前中は、子どもたちは幼稚園や学校で来ることはないので、専らシニアの皆さんが訪れてくれる。訪れるというより、落ち込んでいるであろう私を慰めにやって来てくれる婦人会の人達だ。

この応援団のメンバーで近頃、話題になったのが『国宝』という映画。

映画を先に観るか、原作を先に読むか。

映画を既に見た人もあれば、その原作の読み回しを待っている人もある。

私も原作を読みながら、特定の歌舞伎役者を思い描いて、この登場人物は、あの役者に違いないと一人で想像して楽しんだ。

登場人物が織りなす芸道に徹する人々の厳しさ、孤独。

孤高というのは、こういうことなのだと読みながら少し辛くなる。

その辛さを突き進んで、魂を捧げるようにしなければ得られない珠玉のもの。

そんな空恐ろしいくらいの厳しい世界があるのだと、なんとも言えない読後感に浸る。

「今日は、これを借りて帰っていいですか?」

「どうぞ、この本もお勧め」

と、書棚から本を差し出しながら、

「暑いから今日は冷たいコーヒーでお茶にする?」

お茶をしながら、暫しおしゃべりに花が咲く。

ちょっと生ぬるいけれど、私には、このくらいのぬるさが性に合っている。

今日も文庫は、のんびりと良いかん、良いかん。