
何のために坐禅をするのか。
その理由は分からない。
たぶん「何のため」という目的がないから坐禅をするのだろうと思う。
私に限って言えば、坐禅をすれば心が定まって無念無想になるということは、無い。
その日によって足の付け根がひどく痛んだり、しびれが来たり、一所懸命真面目に取り組んでいるはずなのに猛烈な眠気に襲われることもある。
たまに、いやあ今日は、スッキリと坐ることが出来て時間の経つのが早かったと思うこともあるが、それはごく稀なことだ。
大事に育てているものが順調に成長していくことは理想だが、心という代物はそう簡単には育ってはくれない。今日は坐蒲がつるつる滑って坐り難かったと言い訳を言い、呼吸の数を数える数息をしていたのに一瞬眠ってしまったり、車のクラクションの音が妙に耳に響いたりと心は常に動き回り「無念無想」という境地とは程遠い。
それなのに何故、坐るのだろうか。
お寺に生まれたからということもある。
もし、お寺に生まれなかったら、しかも、禅宗の坐禅堂がある曹洞宗寺院に生まれていなかったら、坐禅をすることもなかっただろうと思う。
そう考えたときに、坐禅会にお越し下さる方々は凄い人達だと、つくづく感心する。
なにも好き好んで足が痛くなるような坐禅をわざわざ組みにいらっしゃるか。
何故、そこまで熱心に何を求めておられるのか。
私が坐禅を始めたのは小学生の時からで、日曜学校の中で初めて坐禅というものを体験した。
だからキャリアだけは長いのだが、中味は未だ成長せずお粗末なものだ。
日曜学校の子どもたちは、今も変わらず坐禅を経験する。
坐っていた立場から坐ることを指導する立場になった私は、子どもたちの様子を見つめていくことになった。初めは、落ち着かない。坐禅堂でキョロキョロする。
坐っていても隣が気になって横を向いたり、足がしびれると飽きてごそごそしたり、身体がひどく傾いている子どももいる。
けれども、坐禅の度に顎を引き、猫背を直し、姿勢を正して、両手を法界定印(ほっかいじょういん)に組んで坐り続けている内に姿勢が決まって来る。
ぐちゃぐちゃにばら撒かれたパズルのピースを1枚1枚はめていき、最後の1枚をパチリッとはめ込んだような、凜とした姿勢になっていくのだ。
本人達は自分の背中が見えないから知るよしもないが、静寂な坐禅堂でその景色を見るとき、私はいつも感動する。
自分たちの知らない輝ける宝を人はそれぞれ持っているのだと実感する一瞬なのだ。
そして、どうぞ、その宝を大事に育てて下さいますようにと祈る。
元子どもの大人たちも、自分の中にきっと宝を持っているに違いないのだが、いつのまにか心が鈍化し、磨くことを忘れ、自分に期待することすら諦めているけれど、坐禅をするというのは、そんな自分に問い掛ける行為ではないかと思う。
以前、坐禅の「坐」という字は、大地の上に対峙する二人の自分だと教わったことがある。
今の自分と、もう一人の無垢な自分。
佛教的に言えば「本来の面目」
自分が自分を見つめている姿が「坐」という字だと教えられた。
坐禅を続けたからといって何かプラスになるとは言い切れない。
しかし意識的に立ち返る時間を持つこと。
なかなか出来ないけれど、自分のこころを俯瞰する、手放して看る時間を持つこと。
それはとても大事なことではないだろうか。
さりとて、心は振り子のように動いて定まらない。
行っては戻り、行っては戻るの繰り返し。
でも、その帰点を定めることが坐禅を続けるということではないかと、師走、一年を振り返って反省を込めて思う。
力まず、たゆまず、もう一歩。
