春が近づくと何が寂しいかというと、白菜を切ったときに小さな花の芽を見付けたときだ。

ああ、美味しい白菜の時期は終わるのだと少し寂しくなる。

白菜が終われば、春キャベツの登場となるのだが白菜には独特のとろんとした甘みがある。

淡泊に塩だけで煮て、盛り付けたあとで七味を振る。

なんて美味しいのだろう。生では、シャキシャキとした食感。煮ると柔らかに甘やかくなる。

冬の厳しさを耐え抜いたから出てきた滋味があるのだ。

そんな素朴な味わいを感じさせていた野菜が、海老や鶏肉と組み合わせてクリーム煮にすると濃厚な深みを生み出す。

太めの千切りにして蒸し鶏やワカメなどを加える。最後に熱した油を掛けると音も愉しいサラダになる。

漬物にすれば、食事の最後の口直し。

韓国のキムチにすればピリリと美味しくて、ご飯が止まらない。

組み合わせる物によってどのようにも変化していくこの野菜の魅力は何だろう。

脇役かと思えば、鍋にすれば堂々と鍋の中で位置を得ている。

主張過ぎず、さりとて、しっかりとその場に居て、味が濃いわけでもなく、さっぱりとした素朴さを保つ。

そのどんな物と組ませても、寄り添うにして、いかようにも変化していく柔軟さがこの野菜の最大の魅力なのだろう。

さて、私はどうだ?

先ず、意固地である。

対峙した相手に自分を譲れない。

ニョキニョキと出てくる「私が、私が」をモグラ叩きのように際限なく叩き続けてはいるが最後には逆襲されて、気が付けば巨大な「私が」にいつも囚われている。

旧いものを改めて、新しいものを受け入れていく。

そんな柔軟性を持ち得ているか。

相手を選ばず、相手を立てながらも自分を失わず、協働し、更に魅力を増して共存していく。

人は人間関係の中で生きている、生かされている。

生きている限り、「自分」はつきまとう。自分を捨てきることなど、私には出来そうもないけれど、相手との違いを見極めながら個性と協調し、協働し、寄り添っていく道筋を探したい。

そうすれば、いつかは美味しい白菜鍋のような滋味豊かな味が私にも出るのではないだろうか。

いや待て、白菜鍋には、出汁がある。

ここきて自分に最も欠けているものを発見し愕然とする。

嗚呼、人生は多難である。