3年前からインスタを始めた。

こういうのを年寄りの冷や水というのだろうか、慣れないスマホをいじりながら「ああでもない、こうでもない。これは、どうすればいいのか」と正に携帯に翻弄される日々が続いている。

この間は上手くいったのに、なぜ今日は、こう変な画面が出るのだろうかと理解出来ていない者がやろうとするのだから、まるで無免許運転で車道に出ているようなものだ。

インスタに上げる内容は、お寺の行事案内、日々、自分が思っている事柄、うてなハウスというお寺の旧幼稚園園舎を利用した「うてな文庫」、グランドピアノを置いている「うてなホール」、その他の空き教室などで行なわれるワークショップの案内や報告を告示している。

ご覧下さる方々は、文庫やコンサート、蕎麦打ち講座など何の脈絡もなく紹介される内容を見て「なんだか訳の分からない場所だな」と感じておられる方も多いと思う。

傍から見ると全くまとまりのない場所のように思えるだろうが、それがお寺という場所の特徴なのだと、私は思っている。

集まる年齢も赤ちゃんも含めての子どもたち、若いお母さんたちやシニア世代の方々が入り交じってお寺という場を構成している。

それが、おもしろいのだ。

子どもだけ、若い人だけ、シニアだけでは狭い広がりしかないけれど、いろんな人が交わることで雑多なものが生まれる。

そう、雑多なところが「お寺」という場所なのだ。

20代の頃から自分のお寺観は、「お寺は大人の遊園地」だった。

大人の遊園地ではあるけれど、子どもも、大人も、どんな人も楽しめる、こころの休憩場所として存在するもの。

日常生活から少し離れて避難する場所。

ひとりの時間を愉しむところ。

めまぐるしく動くことを一旦停めて、自分をみつめ直すところ。

仙涯和尚のことば通り、

「茶 飲め」

つべこべ言わず、先ず、お茶を飲んでひと休みする。

そんな場所を目指したい。