毎月お寺の掲示板に,その月々の言葉のポスターを掲示する。

有り難いことに掲示板が丁度バス道路に面していることと、掲示板の正面に信号があることが重なって結構見て下さる方が多い。

中には,言葉の意味を教えて欲しいと電話を下さる方、毎月の言葉が楽しみだとお手紙を下さる方もあり、こちらの怠慢で掲示が遅れると「月が変わったのに出ていない」とお叱りの電話を下さる方もある。

その度にああ、見て下さっているのだと励まされ、嬉しくなる。

こうした掲示板に使用する言葉の参考書のような書籍はあるが、それでは人のものを借りて出しているような気がして、やはり自分が読んで感動し、心に残った言葉でないと掲示板の言葉には使えないと思っている。

 

というわけで、結局、掲示板の言葉は、皆さまへの応援メッセージでもあるけれど、同時に自分自身を慰めたり、鼓舞する言葉でもある。

自分が喜んだり、悩んだり、悲しんだり、不安になったときに、ふと読んだ文章、心に残った言葉が忘れられなくて『皆さんも、この言葉が素敵だと思いませんか?』という気持ちで毎回出している。

 

2月の言葉は、坂村真民さんの言葉だった。

「かなしみを あたためあって あるいてゆこう」

初めて読んだとき、ゆっくりと心に染みこむような言葉だと思った。

かなしみは、悲しみかもしれないし、哀しみかもしれない。

お互いの辛さを舐め合って生きていこうというのではなく、懐の深い、ずっしりとした意味のように思えて頭から離れなかった。

 

東日本大震災のとき岩手県大槌町へ行った。

被災して崩壊してしまった街を前にして何も言えなかった。

その光景は、まるで平和資料館にある原爆投下直後の焼け野原になった広島の街のジオラマと同じだった。

総てが壊され、金属は曲がり、黒一色の世界。

その光景を目の当たりにして、私は大槌の人々に何を言ったらいいのだろうかと思った。

一緒に行った婦人会の人達も同じ気持ちだった。

 

「被災地と言われることが嫌なのです」

そう大槌の人達は話し、「私たちは必ず立ち直ります」と宣言するように毅然として言った。

彼女たちのかなしみに無傷の私たちが何を言えよう。

何も言うことは出来ない。

慰めるということは陳腐に思えた。

その時の「かなしみ」が、この坂村真民さんの言葉に出逢ったときに蘇ってきた。

あの気持ちだ・・・。

 

日本の古語は『愛しみ』を「かなしみ」と読む。

相手を慈しみ、深く愛し、思いやる。

愛しみ。

自分と同じように相手を思うこと。

坂村真民さんの言葉にそれを感じたように思えた。

 

今、世界には多くの紛争があり、戦火に巻き込まれて亡くなった人、家族や家、住む国さえも失ってしまった人。

貧困に苦しむ人々。

安穏に日々を暮らしている自分がいれば、そんな苦難の人たちもいる。

その人たちを思いながら、愛しむこと。

何が出来るということではないにしろ、相手を愛し、お互いを思い合いながら、温め合って愛しむ。

お互いのその温もりが伝わっていけば、少しでも光が射し込む世界になっていくのではないか。

かなしむ、愛しむ。

私とあなた。

かなしみを あたためあって生きていく。

深い日本の言葉だと思う。