時代と共に総てのことが変わっていくのは仕方がないことと思いながら、最近の歌は、早口でまくし立てられるような歌詞に、その上、転調を繰り返し複雑に変化しながらどこで息継ぎをするのか分からないメロディーが続く。
なんだか今時の歌は私の心に響かない。
歳を取ったのだと思う。
子どもの頃、年配の方が大晦日に放送される紅白歌合戦を観ても誰が誰だか分からないと言っていたのを思いだし、嗚呼、とうとう自分も、そのお仲間になったのだと苦笑する。
化粧をして出てくる男性アイドルを『綺麗だ』とも思わないし、韓国のアイドルグループでも、日本のアイドルグループでも、踊りも歌も、どれも同じように見えてしまう。
何故、これがアメリカを席巻したのか、その良さが私には分からない。
自分が10代の頃、年配者のこぼす愚痴を笑っていたけれど、今は成程と合点がいく。
詩を味わったり、メロディーを味わったり、余韻を感じたり、そんなことはもう今の時代にはないのだろうか。
瞬間的なもの、速く、次々に変化して、ひとつの所にとどまらない。
今や、じっくり味わってというのは時代遅れなのだろうか。
そう思っていたところ、最近、やたらに昭和歌謡と銘打つ番組が目に付くようになった。しかも、今の若者から昭和歌謡のジャンルが絶賛されているというのだから不思議なものだ。私からみると、今の曲は詩もメロディーも理解出来ないと拒否反応すら感じているのに、若い世代は、今の曲も理解しながら、尚且つ昭和歌謡のジャンルも素敵だと認め、世代という隔った河に平気で橋を架けて易々と渡ることが出来るらしい。
柔軟性ということの素晴らしさだ。
こっちもいいけれど、あっちもいい。
情報過多と言われながらも、いろんなものを見たり聴いたりしながら自分の感性に合ったものを掴んでいく力が今の若い人にはあるのだろうか。
ベテランと言われる世代になると、つい自分の経験、感覚、習慣という今まで自分が得たものの中で判断しがちになる。
でもそれは、ひとつのこだわりなのかもしれない。
知らない間に身に付いた自分の癖に固執して、そこから動けない。
確かに「こだわり」ということは大事なことではある。
それを追求して一つの到達点に辿り着く人もいる。
でも、拘ることで他が見えなくなる。受け入れられなくなるということも大いにある。拘りを捨て、一度流れてみれば、又違ったものが発見できるかもしれない。
人生100年時代。
時に自分の中に今までと違う風を入れてみるのも悪くない。
春になった。
さて、新しい窓を開けてみようか。