先月に続いて文庫に関する話で恐縮だが、今月も、その話をしようと思う。

うてな文庫の蔵書は、私が長年買い求めていた私物の本だ。

それを並べて文庫の形を作った。

何だか自分の頭の中をさらけ出すようで、とても恥ずかしくはあったけれど、兎に角、持ち駒はこれしかないのだから仕方がないと、自室にあった本を並べた。

すると、「こんな本は置いて頂けませんか?」と持ち込んで来られる知り合いや檀家様もあり、自分の本+頂き物の本という内容になった。

それでは、自分の本なら総て憶えているかといえば読んだはずなのに、はてさてどのような内容だったのか、読んで感動したか、感動しなかったのかすら憶えていないものもある。

この本はいつか読みたいと思って買ったものの、どうも気が進まず手付かずになっている本もある。

亡くなられた池田弥三郎先生が読書には3種類あって、「乱読・熟読・積ん読」と言われたのを聞いたとき、成程、私はこれがほとんどだと、その時思った。

今は読んでいないけれど、いつかはきっと。その「いつか」を待つ時間が、この本には必要なのだろうと勝手に思ったりしている。

 

先日、文庫の日に1冊の本を借りて行かれる方があった。

「これ読みたかったんです」

見るとまだ新しく読み跡のない綺麗な本だった。

「これ読まれたんですか?」

そう尋ねられて返答に困った。

文庫にあるのだから、たぶん私が買っていた本に違いないのだが記憶にない。

すると相手は、その本の作者について詳しく教えてくれた。

「なるほど良さそうな本ですね」

自分の持っていた本なのに人様から本の説明を受けるとは、あべこべだなあと思いながら感心してしまった。

結局、この本は「いい本のようだからいつか読もう」と思って書棚に仕舞っていた「積ん読」の一冊だったのだろう。

 

数週間後、

「感動しました」

と、借りて下さった方が返却に訪れた。

「それは良かった。また別の気に入った本を見付けて下さい」

その晩、管理人の私は文庫から彼女が返却したその本を持ち帰り、ページを開いた。

「初めまして、よろしく」

自分の本だったのに長らく放っておいた詫びを言いながら恭しく文字を追った。

人も物も、身近にいるとつい見過ごしがちになるけれど、大事なものは案外近くにあるもの。

秋の夜長、書棚から発掘された自分の本、のはずだったこの本と改めて向き合っている。

日々、学びである。