3月佛教講話会のご報告
日時 3月4日(土)午後3時
講師 長野県常圓寺住職・駒澤大学教授 角田 泰隆老師
演題 道元『正法眼蔵を読む』
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道元禅師の「有時」の巻
「正法眼蔵 有時」の巻は大変難解な内容であり、同時に道元禅師の「存在と時間」の思想に哲学者・田辺元、科学者の橋田邦彦、そしてクリスチャンである金子白夢等がその特筆すべき内容に瞠目し、世界的に道元思想が注目される切掛けとなった巻でもあります。
道元禅師は、存在と時間について独特の考え方を示され、「有時」を「ある時」とは言わず「うじ」と音読しています。
「有」は「存在」であり、「今の私にすべての時間がある」と説かれています。
私たちは動いたり、飛び去ったり、場所を移動することだけが変化だと受け止めがちですが、静止している樹木や見かけは変わらない今の自分自身も刻々と移り変わって「変化」しているのです。
大事なことは変化していくものだけが「時」ではなく、静止しているように見えるものでも刻一刻変化し続けている。
これは、どんなものでも「時」が蓄積して「存在」しているということであり、時と存在は同一であるということなのです。
例えば、月を見て美しいと思うとき、月と自分は一体化しており、花を見れば花と一体化し、何かをするときには全身全霊を掛けて自分と対峙するものと一体化する。
「今・自分がいる」このところ、そして私という存在、そして今という時間、その時その時の時間にすべての時間があり、すべての存在があり、今という時間から除外されている存在はない。
それが道元の世界観であり、時間論であると言えます。
そして総てのものが連なりながら存在しているのです。
その変化し続けている「有時」という現実を我々は、どう生きていったら良いのでしょうか。
「而今(にこん)」という言葉があります。
意味は、まさに今、ということ。
私たちは「今」「ここ」、「このこと」を生きています。
人生は「今」「ここ」「このこと」を「生きていく」ことの連続です。
ただこの瞬間を懸命に生きていくことが道元が説く修行ということなのでしょう。
日常生活すべてが大切な修行の連続であり、それを懸命に生きていくことが大事なのです。