春になって木々の芽吹きがあちらこちらで見られるようになった。

初めは枝先に気が付かないほどの小さな芽が付き、枯れ枝と思っていた植木が急に生気を取り戻したように生き生きと輝き始める。

冬の間、冷たくなっていた花壇にも分らなかったけれど、よく見ると球根から伸びた芽がわずかばかり土の上に顔を覗かせている。

そんな光景も春先の嬉しい景色だ。

何もかも枯れ果てて時が止まったようだと思っていたけれど、変わらぬリズムで冬の間も時は進んでいた。

木々が芽吹き、土中からは花の新芽が顔を覗かせ、毎年同じ光景を目にしながら毎回新鮮な感動に包まれるのは何故だろう。

多分、自然の放つ生気に自分自身が元気づけられているからだと思う。

植物というのは不思議なもので、花が咲き、時季が過ぎて、枯れた枝先を切り落とすと、次の季節には又新しい芽が出てくる。

こちらが枯れれば、脇から新しい芽吹きが始まったりもする。

足下には、小さな花を付けた草が、どこから種が飛んできたのだろうと不思議に思えるほどはえてくる。

アスファルトの道路、石垣の隙間、ありとあらゆる所から吹き出すように芽吹きが始まる。

あの固いアスファルトや砂利を通り抜け、小さな種であった草がどうやって芽を出してきたのか。

掃除をする側から見ると極めて手強い相手だけれども、隙間の深い底から根を伸ばして太陽の光を浴びようとする、その根性が凄いと毎回、草抜き道具で格闘しながら敵ながらあっぱれと驚いてしまう。

この僅かばかりの隙間から射す太陽の光や、雨、吹く風の気配をどうやって土の底に居た種は知ったのだろうか。

進む方向は、そっちだと何故感じられたのだろうか。

雑草と言われる草も、よく見ると小さいながらも花は精緻な造りになっている。

この小さな造りの中で、色彩や柄を全く手抜きもせず見事に作り上げている。

例え小さくて「雑草」という悪名が付いていようとも、細部にわたるまで手抜きもせず仕上げているのを見ると、ときどき草を抜く手を止めて見惚れてしまう。

そうだ、植物にとって常に生きることは真剣勝負。

だからこそ、その姿に見惚れてしまうのだろうと思う。

さて、君は?

私も自分の与えられた時に向いて真剣勝負をしているだろうか。

手抜きの日々を過ごしているのではないだろうか。

春の庭の中で、そんなことをふと思った。