添える、―という言葉を最近考える。
握るでもなく、
掴むでもなく、
添える・・・

ちょっと遠慮がちに
相手に気遣いをさせないように
そっと寄り添うように添える
握るとか掴むというと、あくまで感情の中心は自分にあり、時に、その気持ちが高じて相手の気持ちに踏み込んで自分の気持ちを一方的に押しつけるようなところもある。

しかし添えるというのは、その一歩手前で踏みとどまって自分の感情は押しつけない。
相手が今どうしているのか、どんな気持ちでいるのだろうか、どうして欲しいのか。
少し距離を置きながら見守っている。
そんな距離間の持ち方と眼差しが「添える」という言葉には感じられるのだ。
前をいく人が階段の登りに苦労しておられたので、そっと手を添える。
感謝の気持ちを添える。
大切なものを右手で取りながら、そっと左手も添える。
「添える」という言葉には、自分と対象との間に絶妙な距離間があるように思う。

河合隼雄先生の御著書に「ハリネズミの法則」というのがあると書いてあったことを思い出す。
人は、密着しすぎる人間関係の中では、ある日突然仲違いをしてしまったりすることが起きるらしい。
「ブルータス、お前もか」現象とでもいうのだろうか、親しき仲にも礼儀ありということわざが示すように、親しいからといって遠慮がなさ過ぎる言動や振る舞いの中では、次第に憤懣がたまり、それがいつか爆発する。そして「裏切り」という行為が起きてしまう。
パーソナルスペースの保ち方は難しい。
人は皆々、この間隔に悩む。
遠すぎては他人行儀、近すぎては図々しい。では、その中間どころはどこなのかと日々探りながら過ごしている。その心地よい間隔が「添える」という言葉には含まれているように思える。

先日、古い友人から手紙が届いた。
「追伸
先日、某所にてあなたの姿をお見受けしました。相変わらず溌剌として、お元気そうで安心しました。」
そうお便りの末尾に言葉が添えてあった。

あら、見掛けたのなら、お声を掛けて下されば良かったのにと思いながら、遠くから見守って下さる眼差しを感じて心が温かくなった。
幸せが生まれる瞬間とは、こんな些細なことなのだ。