他人に教えるということは出来るのか。
他人に教えるということは出来ないのではないかと、最近考える。
言葉で、仕草で、手を取り足を取りしても核心部分は伝わらない。
受け取る側が、感じよう、受け取ろうと強く思わない限り伝わらない。
いや強く思ったとしても完全には伝わらないのではないか。
例えば、お茶の所作でも、生け花でも、言葉では伝えきれないものがある。
持って生まれた感覚、感性もあるし、「言葉に尽くせない」ものが多いからだ。
教えて頂きながら、同じように自分もやってみたとしても上手くいかない。
所作の柔らかさ、流れのリズム。
花ならば、色の取り合わせ、活ける形のまとめ具合、花材の生かし方。
それは、教えられるものではない。
持って生まれたものといってしまえば、それまでだが確かにそんなところがある。
でも、どうにか伝えようとして下さるものを掴みたいと、手を伸ばしていく内に核心の端に瞬間でも指先が当たるようにと願いながら努力していくことが、明日の自分を開くことになるのだろうか。

受け取るということは、受け入れることだ。
自分の考え、思惑を一旦チャラにして、白紙の状態に始まりの一点を下ろす。
それが出来ない。
やっているつもりが、やれていないのだ。
自分では教えられた通りにやっているつもりなのだが、教えて下さる側からみると全く解っていないように映る。
「違う、違う、そうじゃない、こうだ」
と言われ、何度もやり直すが上手くいかない。
伝えられた言葉通り自分でやっているつもりなのだが、無意識の内に「自分」がそこに出てくる。
知らない間に付いた癖、「自分」という我、つい頭を持ち上げてくる「それでも・・・」という思い、それらを飲み込み、受け入れなければ伝えようとされるものは受け取れない。
まっさらになるというのは、とても難しいことだと今更ながらに思う。
熟練の味、経験豊富。
一面ではとても大事なことだけれど、一面からみると自分という癖が付いているということかもしれない。
熟練でありながら、初心を持ち続けること。
まっさらな自分で居つづけることが学ぶ姿勢で一番大事なことなのかもしれない。