6月佛教講話会ご報告
演題 「四無量心に学ぶ 五 ”捨“」
四無量心とは瞑想中、40種類の集中して良いとされる項目のひとつとして説かれました。生きとし生けるもの、総てのものが平等で、幸せであるように導く為の心の整え方を説いています。
私たちは、その四無量心の心を持って具体的に行動していかなければなりません。
さて、その四つとは、「慈」友情のように自他に楽を与えようとする思い。
「悲」人の悲しみに心を痛め、救おうとする心や行為。
「喜」人の喜びを見て共に喜びを感じる心
「捨」平等であろうとする思い、思いや行為自体を忘れ去ること
この4つの教えに共通することは、相手と共に悲しみ、喜び、思いやるということです。
さて、今回は5回目の「捨」のお話しとなります。
捨とは、自分の行為を捨てさること。親しいとか、疎遠であるとか、好きとか嫌いと、感情や距離に関係なく平等であろうとする心です。
そして大乗佛教が起こる中、瞑想だけでなく、そこに行動が伴わなければいけないのではないかという教えが拡がっていきました。
人は行なったことを忘れ去ることがなかなか出来ないものです。無意識の中で「してやった」「いいことをした」という思いが残るものですが、その行なったこと自体、思いも共に忘れ去る、捨てるというのが四無量心の「捨」の教えです。
「慈悲するうちは、慈悲に心あり。慈悲熟するとき、慈悲を知らず。慈悲して慈悲を知らぬとき、仏というなり」という至道無難禅師のお言葉通り、捨て去る、忘れ去ることが大事なのです。そして得てして、人の優しさとは外に向いて行われやすきものですが身近な人に心を砕くこと、微笑みを忘れないことが平等、偏らないという教えに繋がっていくのです。
「同時成道」という禅の言葉があります。
山川草木総てのものが平等で、佛の世界に生かされている。それぞれ違う存在であるものが補い合って存在している。自分の凹みを他の出っ張りが補い、まるでたくさんのピースが集まって一つの景色を作り上げ、それが刻々と変化していくような世界。
それがお釈迦さまには、お悟りを開かれたときに見えたのではないかと思うのです。
“いのち”には垣根がなく、自は他であり、他は自である。
その世界こそが「同時成道」なのです。
只、その境地に至るには繰り返し捨て去ることをしていかなければなりません。坐禅は自分に不必要なものを捨て去り、智恵を育てていく修行です。
「まっすぐに生きること」
坐禅は、上手い下手ではなく、只坐ることなのです。