5年前、神應院はお弟子さんを迎えた。
長年坐禅会に通い続け、転勤しても尚、縁を切らず佛教講話会に来てくれていた彼が、出家得度をしたいと申し入れてくれ、その運びとなった。
社会の中で取り残されつつあるお寺に、それまでの安定した生活を捨てて飛び込み、お釈迦さまの教えを求めていこうと決心された姿に私たちは感動した。
そして出家することを許し、快く送り出して下さったご家族の方々には頭の下がる思いがした。
彼とは20年近い付き合いになるのだが、弟子入りとなれば今までとは違って生活空間を共にする時間も増えてくる。
彼にとっても、私たちにとっても、時にはしんどい部分も出てくるだろうと思っていたが、勿論、お互いいいこと尽くめではないにしろ、あにはからんや結構楽しい。
今迄にない視点に気づかされることもあるし、佛教のこと、お寺の悩み、逆に一般の人から見たお寺観を聞いて大いに目を開かれる思いがした。
家族の人数が増えれば楽しさも多くなる。
今や、お寺の要の一人となっている。
ある時、その彼が食事の時にこう言った。
「おかずを初めから人数分に分けておけば無駄がないんですけど。なぜ大盛なんでしょうか。
大盛だと、最初に取る者は遠慮して少ししか取れない」
我が家では、おかずは大盛で出すのが伝統である。
既に私の中では「あたりまえ」のことなので言葉に窮してしまった。
「なぜ?」
ふと、昔の光景がよみがえる。
今でこそ食事は家族だけで頂くことが多くなったが、その昔、私の子供の頃などは常に誰か彼か人がいて、他人家族の別なくみんなで食卓を囲んで一緒に食事をした。
その為、どんな人数でも対応できるように、常におかずはドーンと盛り鉢に盛ってテーブルの上に置く。
そして等分に取り分ける。
大盛だと、家族以外の人数がいくら増えようとも対応できる。
子供の頃からこの光景を見慣れている私は、下宿をしたときに小鉢で盛り分けて出されたのを見て何となく寂しく感じたことを憶えている。
義理の兄などは、この方式がすっかり気に入って「神應院方式にしてくれ」と自宅に帰ってから言ったというので我が家では今でもひとつばなしになっている。
盛り鉢で出されたおかずを順々に年長者から取って、次の人に渡していく。
全体の量を見て、自分がどれだけ頂けるのか考えなければならない。
多く取り過ぎれば最後までいきわたらない。
今日の揚げ物はひとりいくつまで食べられるなと、盛り具合を見て自ずと考えるようになる。
逆に全くそういう経験のない人が一緒に席に着いたことがあった。
その人は、自分の好きなものばかりを好きなだけ取って、次の人に渡した。
父が言った。
「○○君、自分の好きな物ばかり数を取ってしまうと、最後の人まで行き渡らないよ。
全員のことを考えて取らないといけない。」
父のことを思い出しながら、結局、何故小分けしないのかという理屈を上手く説明できないまま会話は終わった。
正月になり、茶道の師匠宅での初釜に出掛けた。
嗜みとして、違う形での坐禅という意味もあって彼も茶道を習っている。
席入りし、炭から懐石に移った時だった。
炊きたてのご飯の入ったお櫃を順々に取りまわしながら隣で、「これですね」と彼がニッと笑って言った。
言葉で伝えることには限界がある。
「なんとなく」という曖昧さの中にこそ大事なものが潜んでいると思うのだけれど、ことばでは届くようで肝心なところが届かないような気がする。
人は感じて、会得していくものだなあと彼のニッと笑った顔を見ながら思った。