春が過ぎ、夏に向かって季節が動き出している。
日本の気候も変わって、うららかな春とか、清々しい初夏の芳りを楽しむといった趣ではなくなってきているような気がする。
冬から、春、そして夏のような陽射しが照り付け、一気に真夏日の気温へと上がっていく。
緩やかな変化の中で季節が移ろっていくという日本の気候ではなくなってしまった。

5月、講話会のご講師をお迎えする準備で玄関のしつらえをする。
玄関扉を拭き、たたきを掃いて水で清め、花を生ける。
季節に合わせて、菖蒲を入れる。
籠に花を入れ、葉を加える。
そして葉の揺らぎの中に風を生ける。
「古池や 蛙飛び込む 水の音」
音を読むことによって、見えない静けさが浮かび上がってくるこの芭蕉の名句。
風があるから葉が揺らぐのであり、葉があるからそよぐ風が見える。

よくお寺には電話相談が掛かって来る。
方丈は根気よく話を聞き、受け答えをしている。
1時間近く電話が続くこともあり、度重ねて掛かってきた後、パタリと止んで、また再びかかり始めることもある。
先日は方丈が留守の時に電話があった。
「怒りとか、嫉妬とかは心の中から無くならないものなのでしょうか。みんなあるんでしょうか」
「どうしたら、なくすことができるのでしょうか」
矢継ぎ早に疑問を投げかけてこられる。
電話の向こうで一所懸命悩んで、真面目に毎日を生きておられる人のことを思った。

「生きている限り、怒りも欲望もなくなることはないんでしょうねえ。逆に言えば、生きているからこそ欲望が起きるんじゃないでしょうか。」
生きている限り、お腹は空き、何かを食べたいという欲望が起きる。
心の平安などとは程遠く、人を見れば自分と比べて落ち込んだり、嫉妬したり、羨ましがったり・・・
心の中は常に葛藤を繰り返している。
投げ掛けられた問いこそ、日々私も悩み、苦しみの種であり、それは一生の命題なのだろうと思う。
解決の糸口は見えているはずなのに見付けられず、堂々巡りを繰り返し、犬が自分のしっぽを追ってクルクル回るように同じ疑問を繰り返し心の中で投げ掛けているような気がする。

でも迷いがあるということが生きているということであり、生きていれば迷いも生まれて来る。
生まれてくる迷いを滅しなければならないと思うから苦しみが生まれ、苦悩の中に埋没してしまう。
生きているからこそ迷うのだと、一度思ってみる。
「そうだ、生きているから迷うのだ」
と一度納得しながらも、すぐにウジウジと悩む。
悩んで迷って、生きていく中で惑うことこそ人間らしいではないか。
風を感じて揺らぐ葉のように、悩みの風を受けて揺らぎながら、たおやかに歩んでいく。
いつかそう思える自分になりたい。