カレーを作る時、玉ねぎの切り方を3パターンくらいに分ける。
厚く切るもの、中くらいのもの、薄切りのもの・・・
他の具材も一緒に油で炒めてスープを入れ、ことことと煮る。
ごろごろ切りの人参やジャガイモ、玉ねぎがどっかりとご飯の上で陣取っている中で薄切り玉ねぎの姿はない。
ことことと煮ている間にすっかり形がなくなり、仕上がった時にはルーの中に溶け込んでしまっている。
それがカレーを口に含んだ時、辛さだけでなく、ほのかな甘みと旨味を感じさせる所以だ。

亡くなってしまった中村勘三郎の話で忘れられないものがある。
戦争について語っていた時、歌舞伎界も第二次世界大戦で多くの役者を失ったが、
そのほとんどが舞台で「その他大勢」の役を務める名もない人々だった。
けれども、その名もない多くの人々を失っては、舞台は成り立たない。
主役だけが注目されがちだけれども、本当は周囲の人々の支えの中で主役は生かされているのだ、と彼は言った。

テレビ画面を見ながらジーンと来てしまった。
目頭が熱くなり、胸の底を打つものを感じた。
多くの場を体験し、いろんな経験をし、苦しんできたからこそ言える言葉なのだろう。
主役は主役の辛さがあり、脇は脇の辛さがある。
立場によって様々な苦しみがあり、それを抱えて生きていかなければいけないことが生きていくということ。

自分の持ち場を生き切ることが「生きる」ということに繋がっていくのだろう。
その生き切ったことで傍の人が活かされるとすれば、こんなに幸せな人生はない。
自分も輝き、人も輝かせることが幸せに通じる。
主役の華やかさはないにしろ、ルーに溶けた玉ねぎに徹することで滋味ある人生が
送られるような気がする。
それには自分の我を捨てることなのだろうが、それがなかなか捨てられない。
旅先の荷物が重いと歩き辛いように、我も捨てて身を軽くすれば自分も幸せになの
だろうか。
嫌味な主張ではなく、風が通り過ぎた余韻のように感じさせる生き方が出来たとしたら素敵だなあと、さくら舞う春の風を感じながら夢想した。