坐禅は何をもたらすのか。
日曜学校に入った小学生時代から坐禅というものは略式ではあるものの、体験してきた。
それから、うん十年。
何か変わったのか、人間的な進歩があったのかと言えば、情けない話、「否」である。
相変わらず、子供じみた精神状態で足踏みしている。
では、坐禅をしても意味がないではないか、といえば、そうではないと感覚的にこころの深い所で自分自身感じている。

坐禅の要は「呼吸」だという。
自分の中から息を吐き出し、その後、静かに息を吸う。
そこから、ゆっくりと静かな呼吸を続け、整えていく。
次第に日常生活の中で動いてきたこころの波が、小さなさざ波となってくる。
泥水を攪拌すると水が濁って何も見えなくなるが、静かに動かさず置いていると泥は
沈殿し、透明な水と泥に分かれていく。
ただ分離されるだけで、泥がなくなるわけではない。

こころも同じ。
坐禅をしたからといって、自分の中から怒りや嫉妬、不安や欲望が消滅するわけではない。
依然としてあるのだ。
ただ、静まったこころの中で、沈静して存在する自分の中の迷いを見つめることが出来る。
「ああ、こんなにもこころが迷い、常に落ち着きなく動いているものなのか」
と、驚きをもってみつめる。

そして、坐禅の時間が終わり組んだ足をほどいて、日常生活に戻っていくと、
日々の喧騒の中で再び自分のこころは攪拌され、泥水を抱えて日々彷徨っている。
「あ、いけないな」
とは思う。
態勢を整えて、こころを整理しなければと焦る。
この進歩のない愚直な繰り返しが、こころを見つめる「眼」を育てていくのか。
果たして、自分は進歩しているのかというと全く自信はない。
けれども、こころが今乱れていると思い、感じている自分はいる。

「坐禅は、坐るだけが坐禅ではない」
亡くなられた酒井得元老師がよく言われた。
ご飯を頂いているときも、お風呂に入っている時も、常住坐臥、坐禅なんだ、と。
何をしているときも修行。
無駄な時間は無いということなのだろう。
幼い自分に落ち込みながら最近、「見つめる眼」を育てることが大事なのではないかと、
つくづく思う。
つい感情に振り回されてしまうけれども、どんな時も、もうひとりの自分が、自分を見つめている。
その眼差しが、自分自身を育てていくことに繋がっていくのではないかと思う。
日々、攪拌され、迷いの中にいる自分を見つめながら、「眼差し」を育てていくことの難しさを思う。