7月に入り8月が近づいてくると、とうとうお盆が来るなあと思う。
さあ、忙しい毎日が始まるぞと緊張で身構える。
8月が終わると、少しの間を置いて秋彼岸になるので、8月の始まりは、実質これから2ヶ月続く緊張の日々の始まりを意味する。
在家の人たちにとって秋彼岸は、まだまだ9月23日なのだから、ずっと先の話ではないかと笑われるかもしれないが、お寺の者にとって事前の準備を含めると、8月から9月にかけての息抜きの時間は、ほんのわずかになる。
お手伝い頂く寺方と日程を調整しながらお盆経、彼岸の棚経の日程を割り振りする。
お越し頂く寺方が決まれば日程に合わせて、献立を決める。
寝具を干して宿泊の準備。
寺報『なごみ』の原稿構成、制作。
コロナ禍になって新しく作業が加わり、出来上がったものを折って、塔婆供養、添え施餓鬼法要の案内を同封して発送。
別にそれぞれのお宅へお参りの日程を連絡する葉書を発送。
発送が終わると、途端に電話が鳴り始める。
『その日は、仕事が休めないので』
「だいたい何時頃に来られますか」
『外出するから帰って来る夕方に時間を変えて欲しい。』
『日にちが違ったら大丈夫なんだけど』
『塔婆供養ってなんですか』
電話の内容は様々だ。
穏やかに話す人もいれば、人ごとのように言う人、迷惑だと言わんばかりの人。
「地域を分けて日程を決め、道順を決めていくので日にちを変えてというのは無理なんです」と話すと、分って下さる方もいれば怒る方もいる。
中には「コロナなのに来るのか!」と怒る人もいる。
顔はわからないが、声の向こうに、その家庭の様子が見えてくる気がする。
繰り返されるいつもの電話に応対しながら『理解する』『解り合う』ということはどういうことなのかと思う。
相手様には相手様の都合がある、こちら側にもこちら側の都合がある。
その都合のズレをすり合わせながら、どうにかご理解頂けないものかと思うけれど早々、総てが上手くいくわけではない。。
直接、檀家様と接する方丈たちと違い、その家族である寺族の私たちは、申し訳ないことにほとんどの檀家様のことを知らない。
佛教講話会にお越し下さる方、坐禅会に来られる方、婦人会の皆さま、寺院役員の皆さまなどのごく限られた人々の顔しか私たちは知る術がない。
お寺にとっての大きな悩みは、この一点だと思っている。
顔と名前が一致するとよく言うが、顔と名前が一致することでお互いの意識に合点がいき、相手のいうことを聞こうという体勢に入れる。
いかに人と繋がりを持っていくか、しかし、そのことがとても難しい。
檀家の方々に限らず、いろんな方々との縁の糸を紡ぐ場として、お寺が存在していくこと。
その理想を掲げながら、道をひたすら歩いて行くしかないのだろうなあと思っている。