ことばによって人のこころは紡がれ、育まれ、時に傷付けられたりもする。
汚いことばを投げ掛けられて、こころに染みを作ってしまうこともある。
忘れようと思っても、忘れられない。
ツーンとした痛みが、ずっとこころの底に残ってしまう。
そんなことも、ことばは生み出していく。
大概こういう時、相手はそんなことをしたなんて露ほども思っていない。
相変わらずの笑顔で接してくる度に、こちらのこころは小さな疼きを憶える。
私も他人のことをとやかく言えた義理ではないから、自分も知らぬ間に人を傷付け、相手の
こころに染みをつけたことも何度となくあるのだろうと思う。
すっかり忘れてしまって脳天気に笑って接しているけれども、多くの関わりに中で
詫びなければならないことがたくさんあることだろうと思う。
人と接するということは、そんな自分の知らぬ間に犯した罪を詫びながら、一歩引いて人と接するくらいが丁度良いのかもしれない。
生きていくというのは、少し引いて距離を取りながら、時に並んで、時に離れて歩いて行くということなのだろうか。
先日、スーパーに買い物に行った時のこと。
秋祭りの前夜、夕飯はおでんにしようと大根等の食材をかごに入れてレジに並んだ。
地元ではお祭りの時には、おでんにお寿司というのが、お祭りというハレの日の定番の献立となっている。
昔は、親戚や近所のみんなが集って賑やかに飲んだり食べたりしたものなのだろうから、たくさんの人が遠慮なく取り分けられるように、小寒くなった秋に温かなおでんと、ご馳走のお寿司でもてなしたのだろうと思う。
今は人の集まることも少なくなったけれど、変わらず多くの人がおでんを炊くらしい。
その証拠に、その日、レジに並んだ人々のかごには、おでんの食材が多く求められていた。
私の前に並んだ老婦人のかごにも、ご多分にもれず大きな大根が一本入っていた。
研修生というバッジを付けたレジの女の子が大根を取り上げた時、その老婦人が声を掛けた。
「すみませんが、大根を半分に切ってもらえますか」
柔らかな声だった。
レジの女の子は、言われたとおりナイフで大根を半分にし、ビニール袋に入れた。
「ありがとう。お手間掛けてごめんなさいね」
老婦人は、重ねてことばを掛けた。
レジの女の子は、にっこりと笑顔を返した。
ほんの数分の短い時間。
ほんの二言、三言の短いことば。
でも、後ろに並んでいた私のこころまでも柔らかくほぐされて、優しい気持ちに包まれていた。
ことばとは、なんと不思議な生き物なのだろう。