今年の春、5人の子供たちが日曜学校を卒業していった。
以前は中学3年生まで日曜学校に通って来てくれる子供が多かったが、時代とともに学校の状況が変わり、中学生になると皆、日曜日も吹奏楽部などのクラブ活動で忙しくなる。
従って自然の流れで、小学校を終えると日曜学校も同時に卒業となってしまう。
致し方ないと思いながら、さあ今からと思うときに縁が途切れてしまうのは残念でならない。
幼稚園年長さんから小学校卒業まで、月二回ではあるが通い続けてくれる子供たちの成長を長く見守ってきた。初めは法要で合掌するときもキョロキョロと落ち着かず、食事も小食で好き嫌いも多かった。そんな子供たちも月日を重ねるうちに、しっかりと姿勢を正し合掌する姿も美しくなり、食事量も増え、好き嫌いもなくなっていく。
高学年になると大人顔負けの発言も多くなり、私をからかうようなことを言ったりする。
同時にただ「楽しい」「おもしろい」だけではなく、「ままならないこと」も胸の中に抱え込むようにもなる。
そんな子供から大人になっていく行程を近くで見守らせてもらえる位置にいる幸せをいつもかみしめている。
初めてお寺に来てくれて、この子はどんなふうに大きくなっていくのだろうかと思いながら接する間に子供たちはいつの間にか成長していった。
春は出逢いと、別れの季節とよく聞かれる言葉ではあるが、子供たちが大きく成長したことを喜びながら、旅立っていく彼等を見送る切ない思いに包まれるこの季節である。
4月になり、近しい人を見送った。
以前から持病があり何度となく入院手術をされてはいたが、あまりに身近な人だったので、その方との別れを考えたこともなかった。
それが、とうとう来た。
亡くなったという連絡の電話を受けたとき、頭の中で思いがぐるぐると回り事実を受け止めることが出来なかった。
寂しいというより、納得が出来ない。
そんなことがあるわけがない、ついこの間、元気だと聞いたのにといった思いが心の中で渦を巻いた。
いろんなことを助けてもらい、いろんなことを教えてもらった、自分の人生の場面には欠かせない人だった。
人はいつかは亡くなってしまう。
限りがある人生だから、別れはいつかやってくる。
それは解っていることなのに現実になると、気持ちが泡立ち、停止する。
生まれる、成長する、亡くなる。
時間という線上を同じように流れていく中で変化するいのちの姿。
這い這いをしていた赤ん坊が初めて立ったと言って喜び、
幼稚園に入園、卒園。小学校に入学、卒業。高校に入学、卒業・・・と子供の成長に喜ぶ。
大人になって歳を重ね、鏡を見て皺が増えたと嘆く。
そして、いつかは自分を含め見送られる立場になる。
毎日の暮らしの中で忘れている「自分も時間の流れの中にいる」という事実。
流れていくいのちの中で、喜びも悲しみも受け止めながら大事に日々を過ごして生きたいと思った今年の春だった。