同じ意味でも言い方を変えると、ガラリと言葉の印象が違ってくる。
「地味な装いだね」と言われるのと、
「今日の装いはシックだね」
と言われるのとでは、受け取る側の印象が全く違う。
片や、けなされているような思いがするのに対し、片や、大人の装いだと褒められたような印象を持つ。

言葉とは不思議なものだ。
今年も猛暑の夏を越し秋になったものの、いつまでこの暑さが続くのかと思っていたが、祭りの時期になると急に風が冷たくなり、一気に冬を感じる日々になった。
こんな変化を東北出身の母は、「びったおどし」というのだと言っていた。
「びった」とは、ほっぺたのこと。
暢気に構えていたら寒い冬がすぐにやって来て慌てることになるから、冬支度を早く始めなさいよと山の神様がほっぺたを叩いて知らせて下さる。
そのびったおどしを受けて、それ!それ!それ!と昔は布団や衣類の支度をしたのだそうだ。

台所仕事は年中休むことなく忙しく続き、あっという間に一年は過ぎる。
気が付くと年の瀬で今度は来年に向けてお正月の準備に掛からなければという、日々の暮らしは脱兎のごとく過ぎていく。

母と一緒に祖母の着物を整理したことがあった。
「この着物はおばあちゃんが、丁度、今の私ぐらいの年頃に着ていたものだけれど、昔の人は本当に地味だったんだねえ」
と着物を広げながらしみじみと言った。
いつの間に祖母の年齢に母が追いつき、母を見送った後を今度は私が、どんどんと母の年齢に近くなっていく。
未熟な自分を抱えたまま、私の記憶の中にいる母と、今の自分が、ほぼ同じくらいの年齢になってきているのが不思議でたまらない。
自分も歳を取ったのだ。
けれども「歳を取った」というと、なんだかしょぼくれたことを自ら認めたような気がする。
いやいやしょぼくれたままでは終わらせないぞ、と弱気な自分に言い聞かせる。

年を取るというのは、要するに歳を重ねるということ。
「歳を重ねて、いい顔になりましたねえ」
そう言えば人生の褒め言葉になる。
皺も、たるみも、シミさえも、過ごしてきた日々への賛美に変わる。
「歳を重ねて、いい顔になりましたねえ」
近い将来、そう言われて満更でもないと内心ほくそ笑んでいる自分を想像して可笑しくなった。
人間、歳を重ねても欲は捨てられない。