毎月お寺の掲示板に言葉のポスターを掲示する。
7月の掲示板は、
「助けてと言えた日が、助かった日です」
牧師様でありNPO包樸(ほうぼく)代表 奥田 知志氏の言葉だ。
新聞に掲載された記事を読んで、この言葉を見付けたとき胸がいっぱいになった。
以前、鎌田實先生の「がんばらない」という言葉が世の中に拡がったときも同じような思いがしたが、大丈夫、肩の力を抜いて楽にして良いんだよと言われた気持ちがした。
他人に迷惑を掛けないようにと思いながら生きている人は多い。
自分のことは自分で、自力で。
人を頼らない。迷惑を掛けない。
一所懸命、気を張って、緊張して生きている。
しかし自分の影が地面に映るように「生きている」ということは何かしら周囲に影響を与え続けている。
自分ひとりで頑張らなくてもいい。
弱音を吐くということは恥ではない。
愚痴を言い、泣き言を言い、誰かを頼る。
そうすれば今まで自分では気が付かなかった方法で道が繋がるかもしれないし、得意ではないことを、それを得意とする人が手を差し伸べてくれるかもしれない。
正に「助けて」は、その可能性の一歩なのだと思う。
「え、そうだったの。全然、気が付かなかった」
周囲の人の反応には、そういうものが多いかもしれない。
その人が言った「助けて」を聞いて、初めて気が付くという人もあるだろう。
それほど長年着けていた頑丈な鎧は、容易く脱ぎ捨てられるものではないし、微妙な問題ほど意外に親しい人には言い辛いということがあるのがこの問題の難しい点だ。
でも、そこをどうにか乗り越えてほしい。
そして、乗り越えた先にある景色を見てほしい。
新聞の奥田知志氏の記事を読んだ後、久し振りに糸井重里氏の『ボールのようなことば』を読んだ。
その一部にこうある。

あなたにいま必要なのは、
ボールを蹴ること、ボールを投げることです。
目はルールブックを読むんじゃなくて、
ボールの飛んでいった先の空を見るためにあるんです。

ボールは、すべてのはじまりです。
もういっそ、あなたがボールになりなさい。

糸井 重里著『ボールのようなことば』

辛いことはひとりで抱え込まなくても良い。
「助けて」という言葉は、そう私に語りかけて来るような気がした。