日常生活は、いろんなことがこんがらがって出来ている。
後で思えばくだらないことにこだわって自分の感情を揺るがせ、波立たせ、こころの落ち着きを失っていることがある。
一年の始まりに立てた決心も、日常の些細な事柄にまみれているうちに薄らぎ、目の前のことを対処するだけにただ追われている。
そんな時ふと立ち止まって自分を見つめてみる。
「なーんだ!私はそんなことにオタオタとしていたのか」と思えたとしたら、なんと素敵なことだろう。

ものごとは何かを思って始まり、そして少しずつ進んでいく。
その間にも常に新しいことが起きてきて、始終私たちはその対応に追われながら生きている。
昨日決心したことも、新しい出来事の中で置き忘れ、「ちょっと」と思って仮置きすれば積み重なる出来事の下にすっかり決意の思いが埋没してしまう。
そして、見えなくなって忘れる。
これではいけないと再び仕切り直す。
ゼンマイ仕掛けのおもちゃのように進んでは止まり、またネジを巻きなおしてから又、進む。

佛教では、誓願を立てることを「発心(ほっしん)」という。
一度立てたからといってもほったらかしにしていれば、いつかは思いも薄れ、発心も揺らいでくる。
どうせ・・・というこころが囁く声につい甘えて身をゆだねたくなる。
なぜ私はこうも意思が弱いのだろうか、と情けなくもなる。
今年も一年の半分まで来てしまった。
はてさて、初心は如何なものだったのか?

今年は、こういうことを目指したい!と意気込んで新年を迎え、折り返し地点に立った今、もう一度、初心を見つめ直す。
縫物で返し縫いが仕上がりを丈夫にするように何度でも「発心」を立て、自分を勇気づけもう一度仕切り直しを繰り返す。
意思の弱さを嘆くより、初めの一歩を思い出そう。
そしてどんな思いで、その一歩を踏み出したのか。
思い返してみたら、自分の次の一歩が踏み出せるかもしれない。
急がなくても良い。
ゆっくり、ゆっくり自分のリズムで休みながら行けばいいと思う。