「あの人は良い人だ、というのは自分にとって都合のいい人だからだ」
よく笑い話のように、人間の意識のいい加減さを亡くなった酒井得元老師は説いて下さった。
成程、気が付かなかったけれど「良い人」というのは自分にとって都合の良い人なのかもしれない。
自分の意見をいつも通してくれる人。
自分の話しをいつも熱心に聞いてくれる人。
自分の提案に反対しない人。
自分を褒めてくれる人。
そう、みんな自分にとって「良い人」だ。

だれでも苦言を聞くのは嫌。
折角提案したこと、発言に反対されると腹が立つ。
腐されると、更にムッとする思いも湧く。
そうした相手を嫌な人だなあと思う。
無意識の内に自分の感情が働いて苦手意識が育ったりする。
でも、考えようによっては、じぶんの意見とは違うアイデアを言ってくれることによって、違った視点が見え、新しいアイデアの発見に繋がっていくかもしれない。
冷静に考えれば苦言が自分を育てるという一面もあるだろう。

好きな人からもらったものは何でも嬉しい。
ハンカチでも特別な一枚になるし、お菓子も単なるお菓子ではなく「あの方から戴いたお菓子」となれば格別な味がしてひとつひとつを大事に味わおうとする。
恋人からもらったプレゼントも品物に思いがこもっているようで特別なものとなる。
そこに好意という感情が働いているからだ。

けれども、同じ品物をもらっても、嫌いな人からの頂き物は使おうという気持ちがなかなか湧かないし、同じお菓子でもウキウキと頂けるものでもない。
ましてや別れた恋人からのプレゼントは目にするのも嫌になる品物かもしれない。
自分の感情が働いて好悪が逆転することも有り得る。
「好き」とか「嫌い」とか日常の中で頻繁に言ってはいるが、その判断の基軸であるところは案外大きく自分の感情に左右されているような気がする。
自分という人間のいい加減さ。
これに尽きるように思う。