去年の6月、知り合いが沢山の茶花を届けてくれ、暫し花の風情を楽しんだ後、思い付いて挿し木にしてみた。
全てに根が付いたわけでもないが、結構な数の挿し木が育ち、緑の新しい芽が小さく芽吹き、中にはその先に花をつけたものもあった。
初めは心もとない小さな芽だったものが、ひと月、ふた月と経つ内にひとまわり大きくなって11月に入ってから、ビニールポットから素焼きの植木鉢に植え替えをした。

小さな植木鉢が並び始めると、やはり見栄え良く庭を整理しなければいけないと思い始め、仕切っていたレンガを整え、それぞれの花のエリアを決めながら全体を植え替えてみた。
物事はやり始めると、案外面白くなる。
狭い空間ではあるが、この木は少し選定し、下草に光が当たるようにした方が良いとか、この辺りにはこんな花を植え、ここのエリアには茶花を集めて植えてみようなどと想像をしながら、あっちのものを、こっちへ、こっちのものは、あっちへと毎日畑仕事にいそしんだ。

少しずつ全体の形が整い、毎日眺めている内に、秋の陽射しが草芽を育てていく。
ある日、気が付いてみると、丸い葉の塊が、あちらこちらに固まって生えてきている。
はてさて、こんな花はあっただろうか。
小さな芽吹きだと、成長してどんな花が咲くのか、葉っぱだけだと分からない。
ホタルブクロのようではあるが、でも違うようでもある。
毎日眺めている内に、その塊は、庭のあちらこちらに芽吹いてきた。
雑草とみなして引っこ抜くことは簡単だが、果たして抜いた後で「しまった!」と後悔するのも嫌なので、眺めている内に愛着も湧いて、取り敢えず数か所に分散させて植えてみた。

1月、2月が過ぎ、春の陽ざしを感じ始めた頃、謎の緑の塊の中から紫色の花が咲いた。
諸葛菜(しょかつさい)だった。
途端に、気が抜けてしまった。
去年の春、増えすぎた諸葛菜を草を抜くように引っこ抜いたことを思い出した。
やれやれ折角楽しみにしていたのに「なーんだ・・・」と言ってしまい、その大きな自分の声にびっくりして思わず手で口を覆った。
あ、失礼なことを言ったと思った。
寒い冬を越して、折角花を咲かせたのに、「なーんだ」はないだろう。
陽射しの中で花を咲かせている諸葛菜に申し訳なくことをしたと反省した。

考えてみると、私は去年あれだけ群生した諸葛菜だったのに何を見てきたのだろうか。
春に咲いた花は見た。
けれども秋に小さな丸い葉が出て、それが年を越し、春が近づいてくるとぐんぐんと伸びて楕円の形の葉になる。
柴犬の子供が成長し、顔が長くなってしまうようなものだ。
その成長の過程を私はちっとも見ていなかったのだ。
春になって花が美しい、可愛いと言いながら、花たちが一番苦労している寒い時期、彼らを見守ってやっていなかったのだ。
見ているようで、見ていない。
結果だけ見て満足する。
本当に大事なのは、その過程にあるはずなのにと春の陽ざしの中で咲き始めた諸葛菜を見ながら思った。
苦難を乗り越えて、よくぞ此処まで来ましたね。
ありがとう。
風が春を運んできたようだ。