日曜学校の人数がガタッと減った。
コロナということもあって、休会の間に他の習い事に変わるという子どももいた。
一番大きな理由は小学校6年生の子供たちの卒業だった。
小学6年生が多かったので、彼等が卒業して人数が少なくなったということ。
とにかく、人数が減ると佛教歌の声も読経の声も音量が小さくなってしまう。
遊び方も変わってくる。
特に、リーダーシップを取る高学年の存在がなくなってしまうというのは痛手だ。
しかし、もうひとつ高学年の卒業に隠された問題がある。
それは兄弟、姉妹の問題だ。
それまでお兄ちゃん、お姉ちゃんについて通って来ていた下の子どもたちが、兄姉が卒業してどうするか。
この大きな分かれ目が、春にはある。
不思議なことに、同じ兄弟姉妹なのに縁が薄い、濃いというのがある。
お姉ちゃんが熱心に通ってきてくれたからといって、ひとりになった妹や弟が続けて来てくれるかというと、そう易々とはいかない。
かといって強制するわけにはいかないから、彼等、彼女らの中での決断を待つ。
「お姉ちゃんが卒業したから、もうこの子は行かないかなと思っていたら行くっていうので驚いた」
とお母さんが意外だという顔で報告して下さることもある。
内心、自分でも「この子は無理だろうなあ」と思っていた子どもが続けて来てくれるというときは、すこぶる嬉しい。
そして、こんな子どもとは縁が深くなる。
そういう訳で、今、日曜学校は、6年生が一人、あとは3年生と1年生だ。
初めこそ、上級生がいなくなったことへの不安と寂しさを口にしていたものの、今や、そんなことは露ほども思わないらしく、長年の重石から解放されたという感まである。
羽を伸ばし、我が世を謳歌するといった雰囲気で、口が悪い。
「最近、人数が少なくなったからか歌の声が小さいね。佛様は須弥山という遠い山のてっぺんにおられるから大きな声で唄わないと佛様の所まで届かないよ。なんで声が出ないんだろうねえ」
ひとりの女の子、ニカッと笑って一言。
「先生のピアノが下手だから」
ん?!予想を超えるアタックが打ち込まれた。
「ひろちゃん、人が一番気にしていることを言うんじゃない」
3年生、4年生くらいになると口が達者になって自分の発言で相手がどう反応するのか出方を伺うような悪戯を仕掛けてくる。
これは幼稚園年長から小学校6年生という長い月日を付き合っていく日曜学校だからこそ味わえる面白さで、幼かった子どもが徐々に成長し、生意気なことをいうようになり、最終的には他の子供たちの様子を見ながら私の片腕のような働きをして助けてくれる存在になっていくのを間近で感じていく。子どもの成長を目撃する幸運な傍観者になれるのだ。
この日、その途中段階のひろちゃんの発言が、とても眩しく感じられた。
食事を終え、その日は出席者が少なかったので、洗い物を皆ですることにした。
洗うのは専ら私が務め、食器を拭く、棚に片付ける作業を子供たちにさせる。
洗剤を付け、水を出し、すすぐ私の手元を見つめて、もんちゃんが冷めたように言う。
「結構、水を出すんだねえ。僕の母さんはあんまり出さないよ。水道代が掛かるんだって」
ほう、内心感心しながら、
「大したもんだ。でも、このお水、溜水にしているから」
と苦しい応戦。
後は、今日の味噌汁の具は少なかった。
漬物は、まあまあ。
まるで姑のような口をきく。
そうしながら、この小学3年生も大人がどう反応するのか窺っている。
「日曜学校は、どうなるの?人数が減って潰れるんじゃないん?」
時の流れには波があって、今までも会員がひとりということもあったけれど、いつの間にか増え始めて、一時期は逆にお断りしようかという時代もあったし。
子供たちに心配を掛けながら、こうやって日曜学校は時の波間にぷかぷか浮かびながら存続していく絶滅危惧種なのであります。

神應院あそか日曜学校。
毎月第二、第四日曜日、午前9時から午後1時半まで。
昼食付きで、会費 月100円。
只今会員、大いに募集中です。