「気にしていないですよ」
と言いながら、実際は大いに気にしている。
「傷ついてなんかいるわけないじゃないですか」
と言いながら、数日、悩んで落ち込んでいる。
ハ、ハ、ハと笑って見せておきながら、夜、鏡を見ると眉間の皺が昨日より深くなったような気がする。
「明日は、明日の風が吹く」
と言いながら、
「今日は、凪だ」とぼやく。
それでいて、朝、カーテンを開けるとき、
「今日も元気だ、カメハメハー!」
と、ドラゴンボールを口にして気合いを入れる。
顔を洗い、鏡を向かって、にーっと笑う。
「さあ、口角を上げて!」
昨日は落ち込んだと言いながら、朝食が始まるとぺろりと平らげる。
テレビドラマの深刻なシーンでは身につまされて、泣く。
スリルあふれるシーンではヒャ!っと、思わず身体をのけぞらしては、家族に叱られる。
コミカルな場面では、ガ、ハ、ハとお腹を抱えて大笑いする。
一日の中で私の感情は、あちらに振れたり、こちらに振り戻されたりと忙しい。
些細な事象で自分の感情は、動く。
表面的には、そうは見えないかもしれないけれど、人はみなそんなものではないのだろうか。
達観なんて、永遠に行き着けない。
以前、達磨さんの画の賛に「不動」と書いたら、笑われた。
不動じゃないよ、不倒だよ。動かないんじゃなくて、倒れないんだ。
成程、そういえば達磨さんは、ゆらゆらと揺れている。
常に動いているけれど、決して倒れない。
なんだか新しい発見をしたようで感動した。
人が生きるというのは、常に選択の連続だ。
あっちの方向に進むべきか、それともこちらの方が良いのか。
先にこちらをすませておくべきか、それとも優先すべきはこちらか。
小さなことから選択を迫られる。
迷わないはずがない、迷って当然なのだ。
感情の揺れの中で迷うことを恥ずかしいと思わなくてもいい。
優柔不断だと落ち込まなくてもいい。
誰だって、こころの中では感情の振り子は揺れ、迷う。
それは恥ではないということをもう一度自分に言ってみる。
優柔不断で迷っていいのだ。
それはきっと真剣に、真面目に取り組んでいることの裏返しなのだから。