新年を迎え、先ず初めに行われる神應院の行事は、元旦、早朝の「修正会(しゅじょうえ)」。
昨日までの慌ただしさはどこへ行ったのか、元旦の朝の空気は緊張の糸を張ったように冴え冴えとしている。
よし、今からスタートだと腹の底から力が湧いてこころの奥で拳を突き上げるような気分になってくる。
何もかも新しくスタートさせる、そんな心機一転の気分にさせられる不思議な空気が満ちているのが元旦という特別な朝だ。
私たち台所方は、朝起きると新年初めの湯を沸かし、本尊様に差し上げるお抹茶と梅湯(ばいとう)の用意をし、お雑煮を載せたお霊供膳を整える。
コロナ以前は、坐禅と大般若法要の後、皆様にお祝いのお善哉を召し上がって頂くので、すぐ運び出しが出来るように様々準備をしておく。
こうした手順がコロナ以降、全く変わってしまったのは本当に残念な事だ
行事は6時半開始。
三々五々、まだ暗い中を檀信徒の方々が集まって来られる。
本堂の引き戸が開く度に冷たい空気が流れ込む。
暖かな地域である呉においても、早朝の空気は厳しく、指先は冷たくかじかんでくるのだから、そこを押して行事にお越しになる檀信徒の方々の思いには頭が下がる。
「明けましておめでとうございます。旧年中はいろいろお世話になりました。本年も宜しくお願い申し上げます」
静かなご挨拶の声があちらこちらで聞こえ、皆様は坐禅堂へと入っていかれる。
薄明りの坐禅堂では既に坐っておられる方もある。
無言で坐蒲に坐り、壁に向かう。
導師が坐禅堂に入堂し、開始の鐘がならされる。
息を吐き、吸う。
この単純な繰り返しの中で、生きるということが営まれていくのだ。
朝のしじまの中、こころは静かに平らかに流れていく。
少しずつ、時間と共に坐禅堂に明かりがさしこみ、朝の時は過ぎる。
終わりの鐘がなり、組んでいる足を解いて単を下り、大般若法要の座に着く。
大般若法要は各人に与えられた大きな大般若経を、お経を唱えながらめくり一年の無病息災を祈祷する。
パラパラとアコーディオンのようにお経を扇面に広げることを数度繰り返し、膨大なお経を唱えたことにするこの大般若経法要は、子供の頃は見ていると面白そうで楽しみだったが、これがやってみるとなかなか難しい。
パラパラと右から左へ、左から右へと繰り返す内に、手元がくるってお経本がテーブルの上に広がってしまうこともある。
そうなるとテーブルに広がったお経の開きを閉じながらページを戻していく。
ただお経本を広げ、めくっていくだけなのだが、パラパラと広げて閉じる間に小さな風が起こる。
お経本から吹いてくるこの小さな風を身に受け、魔を掃い、一年の無病息災を祈るというのが、この大般若法要の眼目なのだ。
人は安らぎを願い、祈る。
勤行の声と鐘の音が重なり合って、人々の思いが堂内に満ちてくる。
朝の光は明るく射しこみ、時折、表道路を通る車の音が聞こえて来るようになった。
元旦の修正会、今年も無事に終わった。
ここから、一年の日送りがスタートする。