夏の陽射しを受けて椿の葉も少し固くなり、色も濃くなってきた。

春先に芽吹いたときは心細いくらいに柔らかく、春過ぎても尚、心持ち葉の色は濃くなったものの柔らかさを残した葉を触りながら、一体いつになったら固い葉に変わるのだろうと思っていた。

それが立夏も過ぎ陽差しがきつくなると、あのしっかりした椿の葉の固さにいつの間にか変わっていた。

育つということは、嬉しくもあり、寂しくもあることなのだと思う。

無性にあの頼りないほどに柔らかかった幼葉が懐かしかった。

 

姪の子供が小学校で最後の運動会を終えた。

小さな時には、少し高音でハスキーな声で良くしゃべる子どもだった。

小学校に入学するときは、川向こうですぐ見える小学校なのに小さな子が橋をひとりで渡って行く姿に涙が出たと言う姪の言葉を聞きながら、私までが涙ぐんだことを思い出す。

その彼がタブレットを持ち、ゲームに夢中になり、話し掛けても「ああ」「うん」ぐらいしか話さなくなり、6年生になる頃には、敬語を使い始めた。

「おじゃまします」「お久し振りです」「ありがとうございます」「これは、どこに置いたらいいですか?」

やけに丁寧な物言いをする。

そうかと思えば、どんなゲームをしているのか、私にも出来るかと聞くと「無理」というひと言で会話を打ち切られてしまう。

そんな時は、一瞬にして世代の壁に遮断されたような気分になる。

 

2年前から毎年、お正月には一緒に、ゲームをするようになった。

相手は手慣れたもので、ゲーム機の設定から、起動、ゲームの選択までテキパキとひとりでこなす。

そして、いざゲームが始まると、機器の操作に手こずる私を尻目にダントツトップを走り、尚且つ、「見てられん!貸して!」と言って勝手に私から操作機器を取り上げて走り抜いてしまった。

「だから、このボタンと、このボタンを一緒に押すとスピードが出るから。ほら、そこを狙わないと駄目でしょ」

厳しい教官は、私の横で怒る。

そうは言うけれど、ゲームを触ったことのないシニアにとって、この操作は難ものなのだとブツブツ言いながら一緒にやっている。

 

ゲームに夢中になりながら、いつもよりリラックスしている小学生を見て、こうして遊んでもらえるのもいつまでなのかと思ったりする。

大きくなったなあという感慨と、一抹の寂しさ。

成長するというのは、人と人との距離間も広がるということなのだろう。

小さなときの抱っこや、手遊びの時の柔らかな直接的な感触も、成長とともに少し離れた場所から相手を眺めていく光景に変わる。

その距離の中を行ったり来たりしながら、お互いを理解しようとする。

「おーい、元気かー」

「大丈夫かー、私は、ここにいるからね」

聞こえないかもしれないけれど、いつまでもエールだけは送っていようと思う。