
夏になった。
梅雨はいつ明けるのかと思っていたら、いつの間にか「明けたらしい」という。
最近は季節が曖昧になって、春が急に猛暑となり、以前のように時がゆっくり移り変わっていきながら吹いてくる風に初夏を感じるということもなく、突然に真夏に突入する。
なんとも忙しい季節の流れとなった。
私の子どもの頃は、梅雨が明けて夏になるまでの初夏というほんの短い時間には涼しい夕風が吹いた。
友人と遊び、ほの暗くなった道を家路へと急ぐ頃には道のあちこちに電灯が灯り、その灯りを受けながらコウモリが飛び交う。
家の窓からも灯りが漏れ、夕飯の煮炊きの匂いがする。
「今日、うちはなんだろう?」
そう思いながら駆け足で帰る。
そんな風景が夏の情景だったように思う。
夏休みは朝起きると同時に虫網を持って蝉採りに走り回り、蟻の巣をつついて捕まえて瓶に入れ逃げないように手で蓋をしていたら、蟻に噛まれて猛烈な痒みに苦しんだという思い出もある。
ガラス瓶のジュースを持って、一緒に遊んでくれない兄を追っかけていたら途中で転げて、手を切ってしまったこと。
その傷跡は今も掌に残っている。
小分けにしたスイカではなく、絵本に出てくるような半月をしたスイカをがぶりと食べたいと言って母にねだり、「それなら、廊下で食べなさい!」と広げた新聞に座って兄妹でたべたこと。
夏という季節の中に思い出が一杯詰まっている。
暑い日の昼食は、そうめんや冷や麦と決まっていた。
冷や麦にはピンクや緑色、黄色の色付き麺が少し混ざっていて、子どもたちはこれを目当てに兄妹で争って食べた。
時に近所の定食屋さんで店屋物を頼むこともあって、その受け取りに行くのも楽しみだった。
そこは近所の繁盛店で、暖簾をくぐって引き戸を開けると、いつも満員のお客さん達と店のおばさんや、おじさんがしゃべる声も賑やかで、ドキドキしたものだ。
いろんな食べ物の匂いもむんむんする中で、我が家の注文した品物が出来上がるまでテーブルへ運ばれていくご馳走を眺めている。
丼ご飯を見て大人は、あんな天こ盛りのご飯を平気で食べるのかとか感心し、何よりざる蕎麦の映像は衝撃的だった。
あんな山盛りの蕎麦を大人になれば食べ切ることが出来るようになるのかと、未知への憧れを込めて眺めた。
実際、小学校高学年頃に初めてざる蕎麦を注文してみると揚げ底で、簾の上に蕎麦が載っているだけで量は大してないこと。
それを知ったときはがっかりしたけれど、丼ご飯を初めて注文して食べ切ったときは、ひとつの目標を制覇し大人になったことを自覚したような高揚感に満足した。
子どもの時の喜びというものは本当に単純で、大人にとって気にも留めないことが大きな喜びや満足感を与えてくれるものなのだと思う。
人生の中で大事なこと。
それは人それぞれではあるけれど、どんなものでも在り来たりの些細な出来事が積み重なっていく毎日という平凡さの中に隠れている。
それをみつけることが出来るか、出来ないか。
「おはよう」
「こんにちは」「ありがとう」「また、明日」「また、会おうね」
「あーそぼ!」
使い慣れたことばから始まる「毎日」という時間の中に宝物は詰まっている。
