
最近は、「なんとかハラスメント』という名前の付いた世の中の決まり事が出来て
何となく息苦しくなった。
少し叱ったくらいで「パワハラ」となり、褒めたつもりが「セクハラ」となり、良かれと思ってアドバイスすることも、先輩として後輩を指導していくこともなかなか難しくなったようだ。
今の自分の発言は大丈夫?
言った後で、ドキッとして、そうではなくて今、私が言ったのはねと発言に関して説明を付けないといけないのかと思ってしまう。
何とも息苦しい時代になった。
先日、銀行に行って番号を呼ばれるまで待合の椅子に座っていた。
何気なく行内のようすをぐるりと見回していると、壁に貼ってある1枚のポスターが目にとまった。
十項目くらい並んだA2サイズの、真っ白に字だけのポスターだった。
題は「モラルハラスメント」
それを読んでみると、完璧に私の行動はその条件に引っ掛かってしまうことに愕然とした。
― 長話をすることは相手を拘束し、相手の大事な時間を無駄にさせてしまうことになるー
正に私のことだ。
友人と話をする。
大した話をするわけでもないのだけれど、お互いの近況報告をしたり、教えてもらいたいことにアドバイスを求めたり。
「ごめん、つい長話になってしまって」
と言っては電話を切る。
お寺の婦人会のメンバーとも、他愛ない話に花が咲く。
気が付くと「あら、こんな時間!」と言って毎回お開きとなる。
「いったい何を話していたっけ?」
と振り返っても話は取り留めのないものなのである。
いわゆる「くだらない話」なのだ。
でも、そのくだらない話をしながら、皆が朗らかに笑い、「わたしもそうそう!」と言って相づちを打ちながら、何となくこころが温もってくる。
こんな時間は無駄なことなのだろうか。
ある科学者が「雑談の中からヒントをもらう」とインタビューに答えていた。
無駄な話ではなく、何事も無駄にしないということ。
雑談の中に大事なヒントを見つけ出せる感性こそ偉大だ。
無駄話、雑談と粗末に扱われるけれど、そこに何をみつけられるのか個々人の器量に掛かっている。
先日、千葉の市川に住んでいる友人に電話をした。
豪雨災害でどうなっているのか心配で溜まらなかった。
お見舞いの言葉を伝え、家族の様子を聞いた後は、豪雨災害とは無関係な懐かしい昔話に花が咲いた。
「あ、ごめん!もらった電話だったのに長くなってしまって。ごめんね。でも、嬉しかった」
そう言って彼女が言ってくれたとき、彼女の声が始めの時とは違って明るくなったように聞こえた。お見舞いの電話というより取り留めのない話ばかりだったけれど、そのくだらない話の中で温もりは伝えられたのではないかと思った。
世は合理性を求め、無駄を排除し、便利と迅速を強いる。
けれども、その真逆なものに温かみや、ゆとりが感じられるのは私の勘違いだろうか。
典型的な女の長話である私は、今の尺度から言うと相手の時間を奪う罪深き人間なのだと思うけれど、「えー、本当?ちょっと待って」と言い返すのは私の往生際の悪さだろうか。
