ひとりになりたい時もある。
何となく人恋しくて、誰かと一緒にいたいと思う時もある。
苦手な人と出逢い、早くこの場をやり過ごしたいと秘かに考えているときがある。
友人と話が弾み、気が付くと随分長く時間が過ぎていることがある。
つくづく自分勝手だと苦笑するが、「一人にしてくれ!」と思いながら、「一人は寂しい」と思う。
行ったり来たり、私の気持ちは動いている。

自分が集中したい時には、やけに周りの音が気になって、イライラする時がある。
集中したいのに出来ないのは、周りがうるさいせいだと腹を立てるが、本当に集中しているときはどんな喧騒の中でも、周囲の事など関係なく夢中になっている。
「古池や 蛙飛び込む水の音」
芭蕉の句は、蛙の音一点で静寂を表す。
全くの無音が静寂ではなく、音が響くことで私たちは静けさを知るのだ。
私たちは様々なことの絡まりの中で生かされている。
その絡まりが生き辛い時もあれば、たくさんのご縁に支えられていることに感謝することもある。
実際、自分の知らない所で、知らない人の働きのお陰で今の自分は生かされているというのも事実だ。

春になれば植物の芽吹きが始まる。
冬枯れの庭の片隅でいのちが日に日に甦っていくのを感じるのは毎年のことながら感動する。
冷たい土の中から小さな芽が顔を出し、日を追うごとに背が伸びて葉が開く。
小春のまだ寒い風が吹く中、小さな葉を抱きながら成長していく。
その内に花芽が付き、春の陽ざしが感じられる頃になると次々に花びらがほころんでくる。
花が咲くには植物の働きだけではない。
土塊をほぐせばミミズが出て来るし、虫の幼虫を見つけることもある。
雨が降って土を潤し、太陽が照って土を温める。
たくさんのことが絡み合う中でいのちは育てられていく。

何一つ無駄なものはなく、何一つ不可欠なものもない。
総て「生きる」ということに必要なものなのだ。
自分ひとりでは生きられないことは確かであり、他と出逢うことによって様々な変化が起こって思わぬことが生まれて来ることもある。
独りではなく、一人。
一人も良し、二人も良し、三人寄れば文殊の知恵。
自分の力だけでは生みだせないものが、そこからは生まれてくるかもしれない。
良き出逢いを。