子供の時、「般若心経の最後のマンダラ『ギャーテー・ギャーテー・ハーラ・ギャーテー・ハラソウギャーテー・ボージーソワカ・ハンニャー・シンギョウ』
という所だけでも憶えておきなさい。
そして困った時があったら、一心にこの言葉を念じなさい。
きっと、あなたを守ってくれますから」
と母に言われた。
毎朝、食事の前に唱える言葉でもあり、言葉の持つ不思議な魅力もあって、お経は、すうっと身体の中に入った。
大人になって旅先の暗闇で途方に暮れた時、この母の言葉を思い出し、一心に唱えるうちに目の前に人家の灯りが見え、救われたことがあった。
信心篤くもなく、不徳の致すばかりの我が身ではあるものの、そんな経験がある。

中学生の時、尊敬する音楽の先生が音程の悪いことを「お経みたいだ」と表現されたことがあった。
私は教室の片隅で、そっと小さくそれは違うのになあとつぶやいた。
お経は宗派によってメロディーが違う。
よく聴けば解ることだけれども、大概の人は、お経は節がないものという先入観に捉われて、
そこから先に進もうとはしない。
同じく中学生の時、クラスメートが事故で亡くなった。
彼のご家庭は浄土真宗の御門徒さんだった。
お葬儀に参列し、彼の最後を見送りながら私は生まれて初めて「白骨の御文章」を聴聞し、その旋律の美しさと御文章の意味の深さに感動し、帰宅して両親に興奮して話したことを今でも鮮明に憶えている。

近年、佛教の声明、キリスト教のグレゴリア聖歌などが現代人の心をなぐさめ、鎮めるものとして注目をされていることからして、お経は無味乾燥としたものではないことが証明されつつあるのではないかと思う。
曹洞宗においても、早朝の永平寺法堂(はっとう)で行われる大勢の雲水達の読経が響く声に包まれると誰しもが感動するのは、意味は解らないにせよ伝わってくるものがあるからだろう。

お経は毛穴から入る、とも母に言われてきた。
日曜学校で『修証義』を唱える時、唱えながら心に何故か掛り、耳に残ることばがある。
解らないけれど、でも、ずっと心に留めている。
ある時、保護者の方が言われた。
「修証義の『たとえ七歳(しちさい)の女流(にょりゅう)なりとも即ち四衆(ししゅ)の導師なり』っていう言葉が好きなんです」
難しい意味は解らないけど、なんだか胸に響くんですよねと笑って話して下さった。
お経は毛穴から入るもの・・・母の言葉を思い出しながら彼女の笑顔を見ていた。

今、コロナ禍で人々は先の見えない不安のるつぼにいる。
多くの活動が停止となる中、お寺もその例に漏れず、人が集まる行事は出来ないのが現状だ。
このまま社会からお寺は無用のものとして忘れられていくのだろうかと不安にもなる。
最近、本堂でお経を唱えているときだった。
方丈たちが最後の回向文(えこうもん)といわれる経文を読み上げている。

・・・伏して願わくは。曇華(どんげ)再び現じて重ねて覚苑(かくおん)の春を開き。慧日(えにち)長え(とこしなえ)に明かにして永く昏衢(こんく)の夜(や)を照らさんことを・・・

深い意味は解らない。
けれども、念じた言葉が連なって真っ暗な混沌とした迷いの世界を 強く意思を持った光が煌々と照らしている光景を想像した。
祈るということ、祈りが届くということ、祈りの声が扉を開く力の一助になることを願う。