記憶と感覚は繋がっている。
視覚。
ざるそばを食べると思い出すことがある。
小学生の頃、山盛りのざるそばを楽々とすすって平らげている人を見て「大人の食欲は凄い!」と驚き、いつか私もあの山を制覇したいと秘かに誓ったことを思い出す。
そして、念願のざるそばを注文してみると器が上げ底だったので、なんだか手品の種明かしのようでガックリしたこと。
そんな忘れ去ったようなことが、ざるそばを食べていると不意に遠い過去から沸々と浮き上がってくる。
自分の中に切り取ったように残る記憶のシーン。

嗅覚。
冬の幼稚園の教室。
私が幼稚園の頃、暖房はダルマ型の石炭ストーブだった。
ストーブの周りには子供たちが怪我をしないように金網の囲いがしてあり、教室に入って来て一番にすることは、鞄の中からお弁当を取り出してめいめいが自分のお弁当を囲いに掛けておく。
そうすると、お昼の時間になる頃にはストーブの熱のお陰でほの温かいお弁当になっている。
海苔弁当の時、次第に温まって来たお弁当から海苔の匂いがプーンと教室中に拡がって来る。
ストーブに掛けたやかんは、しゅんしゅんと湯気を出し、のり弁の匂いは教室に充満する。
ストーブのあたたかさ、湯気の音。
匂いが今でもふと甦ることがある。

触覚
大切な人と別れる時、その最後の時に、自分の中に永遠にその人のことを記憶にとどめておきたいと思う。
絶対に忘れない。
母を見送った後、瞑目した母の身体を両手で抱きしめた。
母の背中はまだ温もりが残っており、ふくよかな背中の感触が掌から伝わって来た。

尊敬する先生とこれが最後と言われてお別れする時、「ハグしていいですか?」と、お願いしてお互い抱きしめ合って別れの挨拶をした。
別れた時の光景、部屋の電球の光、話しをしたときの声のトーン。
指先に残る触感を通して今もはっきりと思い出され、その記憶の糸に織り込まれた思慕という感情が溢れるように流れ出す。

記憶は、感覚と共にある。
見て、聞いて、匂いの中に、手に残った手触りの中から、記憶は立ち昇ってくる。
日々の暮らしの中で、今は何気ないことと見過ごしているが、その何気ない動作を繰り返しながら、感覚が記憶を蓄積している。
そして私たちは過去からの呼び声に耳を澄まし、記憶の糸の先にある未来を夢想する。
過去と未来の狭間に立ちながら、私は此処で五感を通して未来へと続く糸を紡いでいる。