コロナ禍になって、自分の生きている空間が急に狭まったような気がする。
身に迫る圧迫感があって、少し息がつまる。
目に見えない、正体のないウィルスが、いつ自分の身体に入るか分からないというのが益々不安を掻き立てる。
なんとも思わないで好きな時に、好きな用事で、外出していたことがこんなにも恵まれたことだったのかということを初めて味わったような、そんな心持ちだ。
自分が今まで持っていたものを改めて取り出し、まじまじと見つめ、ああそうだったのか、そんなに価値のあることだったのかと思う。
病気をしたとき、健康だった今まで、なんとも思わず出来ていたことが出来なくなっていくその時、「ああ、寝返りを打つということがこんなにも大変なことだったのか」と改めて気が付くのと同じだ。
人は失って初めて、何気ないことが実はとんでもなく大変なことだったのだということに気づく。
そして、その記憶を深く胸に刻むのかと思えば、再び日常の中でいつの間にか忘れ去ってしまう。
だいたいこの「日常」ということばから、考えてみれば少し変だ。
日が常なんてことはないのだ。
毎日は、同じようでいて同じではない。
そのことを今回のコロナ問題は気付かせてくれたのではないか。
清水真砂子先生が「変化こそ大事なもので繰り返しの毎日は意味がないと思いがちだけれども、そんな薄っぺらな毎日を私たちは送っているのだろうか。何か特別な行事ではなく、足を止めて日常を見なおしみてもいいのではないか」と著書の中で語っておられるのを読んだ。
そんな折、先日姪の子供が幼稚園の行き帰りの道々、毎日ダンゴムシを捕まえることに夢中になっているのだと聞いた。
あちらの草むら、こちらの石の下、玄関を出た時から捜索を始めるそうで、それを飽きずに毎日繰り返している。その内、段ボール紙を使って精緻な段ボールダンゴムシを作り上げた。
繰り返し捕まえて、じっくりと観察した中で、その形状を記憶してきたから出来た名作だったという。
そのちびっ子と話をしたとき改めて驚かされたのは、長年私が干からびたダンゴ虫だと思っていた白いダンゴ虫似の虫は、全く別物の虫なのだそうで、その事実を幼稚園児から教えられるという恥ずかしくも、愉快な出来事まであった。
笑いながら記憶をたどる中で、春に害虫と思って柑橘の花木から私が駆除した虫が、実はてんとう虫の幼虫だったと聞かされた時の情けなさ。
知らないということの悲しさを知った。
足元で静かに進む何気ない日常の中には、まだまだ私の知らない感動という発見が満ち溢れている。
生きるというのは何も大げさなことではなく、小さな発見の喜びを積み重ねていくことなのかもしれない。