解り合いたいと思う。
相手に解ってもらいたいと思う。
その気持ちが強ければ強い程、ことばに熱がこもり饒舌になる。
聞いている人は、その姿だけで引いてしまい、結局、思いが強いことが災いして伝えることが尻すぼみに終わってしまう。
伝えたいと思えば、その10分の1だけを語る・・・
いつか本で出逢ったことば。
自分の熱情のポイントだけ、少し語る。
後は、蒔いた種が芽吹くのを待つ。
ご馳走が多いと食退するように、語ることも粗食であることが大事なのかもしれない。

今年、新型コロナウィルスの流行で社会は大混乱の渦に巻き込まれた。
今まで当たり前だったこと、良きことと奨励されたことが突然、禁忌となる。
家族の繋がり、友人、知人との付き合い、語らい。
「やあ」と声をかけて握手すること。
落ち込んでいる人の肩に手を置いて「大丈夫だから」と伝えてあげること。
街中に出掛けて行くこと、公共の交通機関に乗ること。
日常生活の中で普通に行われてきたことに、急ブレーキが掛かったみたいに止まった。
今まで当たり前の一歩が、踏み出せなくなった。

お寺の生活も一変した。
年10回の佛教講話会の中止。
春・秋、お盆法要の縮小
坐禅会、日曜学校、写経会、ボランティア会の活動も全て休会となり、しばらくの間集まることもなかった。
本堂は正に伽藍洞となり、人のざわめきが響かない日々が続いた。

お寺は、どうすればいい?
「ご縁を大切にしましょう」
「坐禅は一人で坐るものではなく、修行仲間と共に切磋琢磨していくもの」
「お寺の中から慈悲の実践活動を」
「子供たちに触れ合いの場を」
そうしたことが全て止まってしまった。

桜守りの佐野 藤右衛門氏の話しておられたことを思い出す。
桜は春、花を咲かせて人々を喜ばせた後、花が散り、やがて、秋になると紅葉し、冬に落葉していく。
四季の移ろいの中で、様々な姿を見せていくけれども、秋に紅葉し、その葉が散った後、桜の木は来年の春に向けて幹を太らせるのだ。
そして、春。
見事、満開の花を咲かせる。

今年、コロナウィルスの流行で何も出来なかった。
けれども、この一見沈滞した一年の中でさまざま考えたことが、次の一歩に繋がって行くことを願う。
一変した社会の中で戸惑い、迷っている多くの人々と共に、一緒に考え、一歩止まって「安心(あんじん)」を得ていく場として、お寺は存在していきたいと切に思う。
「お寺って、何をするところ?」
その疑問を持ちながら、訪ねてみようかと思って下さる方が増えていくことを願う。