今年は激変の一年だった。
コロナが取り沙汰され、外出を控えるようになって家にいる時間が増えた。
自分では、そんなに外出するタイプではないと思っていたけれども、「出てはいけない」となると、「はて、どうする?」と腕組みをしてしまった。
してはいけないと言われると、制約を受けて不自由な思いがしたが、世間の状況を見れば今は家にいた方が正解だと思えた。
長い人生の中で、立ち止まってみるのも悪くない。
人生の「だるまさんが転んだ」を暫し楽しむかと思い、この際だからゴソゴソと身の回りの整理整頓を行うことにした。
丁度、季節は春。
庭仕事をするには打って付けの時季ということもあり、昨年、挿し木にして順調に育ってきた植物を地植えにした。
入口の導入部分にはこの花を植え、奥の方には背が高く、大きく葉を広げるものを植えよう。
樹の下陰には日陰植物を植え、結構自分なりに配置の構想を練って造った。
春から、梅雨を抜け、夏を迎えた頃には花の種類も交代し、秋に向けての草花が生い茂って来た。
お盆月に入り、毎日花の手入れをする時間もなく、でも、それなりに育っている植物を見ているのは楽しいものだと秘かな喜びを感じていた。
自分の満足の為にやり始めたことだったが、花が育つにつれ人に見せたい、見てもらいたいと思う気持ちが膨らんでいく。
お盆法要の当日、手伝いに来てくれた兄の家族を自慢の庭に案内した。
夏の陽射しを受け、入り口に設置したアーチには突き抜き忍冬がてっぺんまで蔓を伸ばし、所々に花を咲かせていた。
左右に分けた花壇の際には秋を待つ水引草が茂り、その奥には花生姜がつやつやとした緑の葉を茂らせている。
梅雨が終わり、紫陽花の時季は過ぎたが、次の季節に向けて植物は準備を始めているのだと花壇を眺めながら思う。
秋になればホトトギスも咲き、冬になれば椿も蕾をつけるだろう。
春に頑張った甲斐があったと、満足して兄たちの様子を見た。
「まあ、いつでも言って下さい。草むしりの手伝いに来ますから」
これは大変だと言わんばかりに兄たちは呆れて庭を眺めている。
さあ、どうだとどや顔で秘密の花園を案内した私だったが、どうやら彼等には草が伸び放題の荒れた庭としか映っていないらしい。
同じ景色を見ても、それぞれ感じる印象が違う。
当たり前のことなのだが、密やかな自慢の庭の披露にそんな言葉が返ってくるとは予想だにしていなかった。
私が見ているもの。
近視眼的に見ているから自己満足の世界にはまってしまい、冷静に見ることが出来なかったのだろうか。
私の見ているもの、それは正しいのか。
単に人の意見に振り回されるということでなく、冷静に見直してみる姿勢がいるのではないかと思った。
人が見て感動するもの、しないもの。
その隔たりがあるからこそ、いろんな芸術が生まれ、いろんな文化が育つ。
それは頭では分かっていても、同じものを見て喜びを共有するということが如何に難しいことか。
兄たちを見送りながら、やはり自分にとってここは秘密の花園なんだけどなあと、庭を振り返りながら未練たらしく思った。