好きな漢字を一文字あげなさいと言われれば、すぐに思い浮かぶのは旧漢字の「逢」という字だ。
今の当用漢字では、しんにょうの点はひとつしかない。
しかし、旧漢字の点がふたつということに妙がある。
私は、いつもこの漢字の部首の部分を見るたびに不思議な感覚にとらわれる。
見つめ続けていると、この「逢」のツクリは正に人が生きているということを象徴的に表しているのではないかいう感慨すら覚える。
部首のしんにょうに打たれたふたつの点。
人生は出逢いによって成り立っているという事実を無限の宇宙の中で向かい合ったふたつの星のように、この字の中の点が見えてくる。
出逢い。
出逢い。
人と人が出逢って、その出逢いによって変化が起こり、人生が変わる。
まるでビリヤードの球がお互いにぶつかって思わぬ方向へと流れていくように人と人、人とモノも出逢うことで思いもしない方向へと流れていくこともある。
このふたつの点の出逢いの中に喜びや悲しみ、時には憎しみも生まれるかもしれない。
その多くの交わりの中で何を感じ、何を学びながら人は生きていくのだろうかと想像すると、このひとつの漢字の中に無限大の宇宙を見るような思いがする。
人生の豊かさは、出逢いにあると私は信じている。
私自身、出逢いの中で感動し、励まされ、育てられてきた。
自然に、思いがけず、小道を辿るように出逢いの道を辿っている。
対談番組などを見ていると出逢いに恵まれている人は、もしかすると意識していないけれども本人の中から求める思いの空気が伝播して、出逢いを引き寄せているような気さえしてくる。
天照大神が天の岩戸を開けて出てこられたように、懸命に生きていれば重い岩戸も開くことがあるのかもしれない。
出逢い。
文化人類学者の上田紀行先生がご自身の生い立ちの中で、苦しまれた家族関係のことを話された時の言葉が印象的だ。
出逢い。
「父は2歳だった私と母を捨てて出て行った。成長するにしたがって母親との確執にも苦しんだ。長い間、酷い父親だと思ってきたけれども、今思えば両親との苦しみの果てに現在の自分はあるのだと思えるようになった。
悪縁というけれども、悪縁すらも実は自分を導いてくれる善縁だったのではないかと気が付いた。」
深い言葉がこころに響き、今も私のこころの中で波紋を広げている。
出逢いは、時に人に悲しみももたらすもの。
けれども、その悲しみ、辛さの果てに「あの出逢いがあったからこそ」と思えるならば人生は豊かになるのではないかと思う。