バス停の目の前に地域の掲示板がある。
コロナが流行し始めた頃から行事を知らせるポスターが次々と剥がされ、今や一枚もなくなってしまった。
空虚になった掲示板の隅に、ポスターを留めていた押しピンだけが無造作にまとめられている。
その日、トンとバスのステップを降り何気なく掲示板に目を向けると、学校帰りの女の子が押しピンで遊んでいる。
赤、緑、白、青。
押しピンの色を並べ替えたり、並べる形を変えたり、押して、引き抜く、それから又押し付けてみる。
その感触を愉しむように遊んでいる。
私は思わず見惚れてしまった。
大人は掲示板を単に伝言板という機能だけで見るけれども、子供にとっては何でも遊び道具となるのだ。
思わぬところで「遊び」を見出していくものだと感心してしまった。

春から流行り始めたコロナは、あっという間に世界を飲み込み、各国で大量患者の発生、重症者の増加を生みだした。
日本に感染の波が押し寄せ、マスコミが煽り立てるように報道し、マスクや消毒用アルコール類の不足が叫ばれ始めた時、国内でパニックが起きるのではないかと心配し不安になった。
先の見えない状況の中、人々の心はどうなっていくのか。
不安という暗雲が重く垂れこみ、何となく息苦しさを感じる毎日が続いた。

大型連休が過ぎ、夏になってもコロナは収まらず、私たちの気持ちもうだったようになってきていた。
やっと一時のマスク不足は解消され、巷に溢れるほどになった。
中にはこの先の暑さを見越して夏用マスクを売る商店さえ出てきて、人の逞しさを感じる思いがした。
マスクが購入出来ないのであればと、ネットで手作りマスクの作り方が流れ、自作のマスクが話題となり始めていた。
あれだけマスク、マスクと騒ぎ、消毒用アルコールだけではなく、ティッシュやトイレットペーパーまで店先から消え大混乱の態を要していたにもかかわらず、今や病気としてのコロナの追求はあやふやとなり、マスクを作ることを楽しむように見ず知らずの人同士がお互いの工夫を分け合い、教え合って、この苦境を乗り越えていこうとしているかのようだった。

悲壮感に押しつぶされパニックになるのではなく、辛さや不安の中で懸命に楽しみや喜びを見つけ出していこうとする人々。
先の見えない不安は変わらないけれども、ジタバタしても仕方がないとでもいうような一種の開き直りのような感覚、人の持つ底力ともいえる。
「ごまかす」ということばが悪いとしたら、痛みや不安を「ぼかす」行為、確固たる不安はあるけれども、とにかく今日一日を懸命に生きようではないかという小さな決意の中で人は支えられているのだと思った。

人は案外に逞しく、タフに出来ている。
自由に外出できない中で、自分達なりに楽しみを見つけ、居る場所で、それなりの愉しみ方を考えていく。
子どもが、どんなものの中からでも遊びを見つけていくように、大人も苦境にあって小さな喜びを見つけ、工夫をし、遊び心を失わないで、笑う術を長い人生の中で身に付けて来た。
歳を重ねても、子供の欠片は大人の中で生きている。