「二十歳からの顔は自分の責任」
母が話していたことを思い出す。
アメリカの大統領のことばだそうだ。
歳を重ね、今や骨董品の年代となってしまった自分の顔をつくづくと鏡で見る。
豊齢線はくっきりと、頬の弛み、目尻、眉間の皺、大小の染み。
これが自分の顔なのかと、思わずため息が出てしまう。
樹木希林が「近頃は歳を重ねて出来た皺を、手術でなくしちゃう人がいるのよね。勿体ないわよねえ、折角出来たのに・・・。」
と言っていたことを思い出す。
皺ひとつで演技する、皺が物語るとも言っていた。
若さに満ちた完璧な形の美しさというものもあれば、少しいびつで整わない中にも美はある。

欠けた茶碗に金継を施し、新しい美を作る。
いびつに歪んだ姿に美を感じるということもある。
利休は、わざと茶碗を粉々にして欠片を繫ぎ合わせた中に詫びの世界を見た。
武骨な姿の根菜。
少し曲がってしまった胡瓜。
古い家屋。
使い込んだ廊下の艶。
日中の太陽と夕暮れの光。
100%エネルギー満タンではないけれども、暮れていく中に美しさを感じるものもある。
エネルギッシュとは違うそこになんとも言われない味わい、安らぎを感じるのは自分が歳を取ったせいなのか。

美しく老いるというが、見掛けの美しさから、滋味のあるつつましやかな美に昇華して人は旅立っていくような気がする。
重ねた人生の日々の中から染み出してくる味わいが自分の顔を作っていく。
新しい歳が始まる。
不格好でも構わない。
私の日々の重なりが、また新たに始まっていく。