暑い夏が終わり、秋になった。
異常な暑さの中、庭仕事は朝夕の水遣りぐらいとなり、8月が終わる頃には花壇はジャングルのようになっていた。
「あらー!」
そんな庭の光景を腰に手を当てて暫く呆然と眺める。
さあ、やりましょうかと自分に号令を掛けて草むしりを始め、覆い被さるように伸びているほふく性の小花を間引きする。
彩りが綺麗で夏の庭を華やかにしてくれた花も枝を広げ過ぎていた。
地下茎やこぼれ種が落ちて拡がった花も少しずつ抜いて間引く。
思い切って伸びたハーブの茎はバッサリと切る。
被っていたものが払われて、光が後方の花にも入り始める。
蔓延っていた草を抜き、広がっていた枝を剪定し、庭は髄分と風通しが良くなったように見える。
同時に空間が空いただけ、何だか淋しくも見えるのは自分の心の投影だろうか。

秋が深まり、季節が良くなる頃には剪定した枝から又新しく芽が出る。
この新芽を見付けたときは、春の芽吹きを見付けた時と同じくらい感動する。
春の芽吹きは、冬の寒さを抜けて大地から、枝先から、小さな芽吹きが始まる。
剪定の後も同じように暫くすると、脇芽が出て新しいいのちの営みが再び始まる。
クレマチスは花が終わるとバッサリと根元から切る。
それでも春になると芽が出て、あっという間に天を目指して駆け上るように蔓を伸ばしていく。
その植物の生命力にいつも感動する。
枝を切られても脇芽を出し、新しい活路を見出そうとするように再生を繰り返す。
終わった花を摘花すると、すぐ後ろにもう次の新しい花が控えている。
次々とバトンタッチして行かれるいのち。

ふと思うのだ。
この植物が持っているほどの旺盛な生命力を人間は持っているのだろうか。
悩み、傷つき、落ち込んだとき、もう駄目だと思う。
自分は立ち上がる勇気も気力も残っていないと絶望の淵に追い込まれる。
どうしようもない失望は人から生きる力を奪う。
どうせやっても実現しないに決まっていると、端から諦めてしまうこともある。
しかし植物の姿を見ていると、総ての蕾が開花するわけでもない。
伸びた枝が残念ながら枯れてしまうこともある。
でも衰えることのない生命力で、その先も生きていこうとしている。
何という力強さだろうか。
人は傷つき、落ち込んだ時、自然に向き合う。
山や海を眺め、美しい花や、静かに枝を広げる木々を見上げ、月を愛でる。

多くの文学も、そんな中で生まれて来た。
なぜ、人は自然に中に身を委ねるのか。
それは無意識のうちに自然の持つ生命力に身を委ね、自分の中の生命力が回復していくのを待っているのだろうか。
花を活け、その美しさを愛でること。
それは美を愛でるだけでなく、その美を支えるいのちを愛でているのだと思う。
形の違ういのちを身近に置くことで、人は自分の中の生命力を目覚めさせているのかもしれない。

月の美しい秋を迎えた。
心の緊張を解いて、季節を楽しんではどうだろうか。